外国語で考え、外国語で話すクセをつける

 

「このステップでは、単語の意味を調べるのではなく、スペルを確認して発音とつづりを一致させるのが目的だからね。英英辞典を使う理由はほかにもあるし、それを使うことで得られる効果も英語習得のうえできわめて大きいものなんだが、それについては次の第三ステップでくわしく教えることにする。ともかく、かならす英英辞典を使って、英韓辞典には絶対頼らないことだ」

 

 「はい、わかりました」

 

 「英語をマスターするうえで、英韓辞典の弊害はほんとうに深刻だよ。英韓辞典を使うと、その場で言葉の意味はすっきり理解できるだろうが、そのクセがついてしまうと、永遠に『外国語で考え、外国語で話す』水準に達することができなくなってしまう」

 

 「外国語で考える水準?・」

 

 こつん、つまり『頭よりも舌が先にしゃべる』状態のことだ。英韓辞典を使いながら一生懸命に勉強して、英語がよくできるようになった人がたまにいるが、その人たちの英語はどうしたって舌より頭が先になる。音ではなく意味で英語を理解しているというかね。話す言葉をまず頭で整理し、それからそれを舌に送る  韓国語を英語に置き換える作業が一度余分に入っているから、すぐに返事ができないし、言葉自体もぎごちなくなってしまう。これは相手の言葉を聞くときも同じで、相手の英語をいったん韓国語に翻訳するから理解が遅くなる。つまり『自国語で考え、外国語で話す』状態になってしまうんだ」

 

 「それじゃ、ほんとうに英語の上手な人は英語で言葉が浮かび、英語でものを考えることができるということですね」

 

 「そう。それが、外国語で考え、外国語で話すという水準さ。英語を聞いたら、すぐに英語の答えが浮かんでくる、とっさに英語が囗をついて出る。そういう状態になってこそほんとうに英語が身についたといえる。そう考えると、『英語を韓国語で理解する』ための道具である英韓辞典の弊害がよくわかるだろう」

 

 「同時に、英語を英語で説明している英英辞典を使うことのメリットもそこにあるわけですね」

 

 「そのとおり。辞書だけではなく、英語の教科書や市販の教材でも、対訳や解説つきのものが大半だが、あれをいくら勉強しても、外国語で考える力は身につかないよ。果ては、発音まで韓国語で読みがなを振ったものまであるからあきれる。あれがいくら正確に読めても、それは英語ではなく、どこまでも韓国語だ、少なくとも韓国語で発音した英語でしかない。それはアメリカ人には通用しないよ」

 

 よくわかるといったように、Kは大きくうなずいた。

 

 「それでは、大きい声で始めから終わりまで読みつづける意味はなんですか。言葉の練習?」

 

 「それだけじゃない。本を読むとき、音読すると、それも大きい声で読むと、かえって意味がよく理解できなくなることはわかる?」

 

読むほうに気をとられてしまうからでしょう。学校で、先生に指名されて読んだときなんか、何を読んだのかよくわかりませんでした」

 

 「そうだろう。声を出して読むという行為は、聴覚と視覚を同時に活用することであり、それに集中すると、意味の理解まで知覚がうまく届かなくなるんだろうな。まして、不慣れな英語の場合にはそうした傾向が強くなる。ところが私のノウ(ウによれば、同じ文章を何度も大きな声で読んでいるうちに、不思議なことに、いつの間にかその意味までがわかるようになってくるんだ」

 

 「へえ、どうしてでしょう?・」

 

 「まず、訓練になるんだろうね。自分の音声で話した英語を自分の耳で聞くことの。また、それによって通読の能力が生じたからだと考えられる」

 

 「ツウドク?」

 

 「そう通して読む通読。精読の反対語だね。私たちがふだん、小説やエッセイを読むときは、たいてい通読をしているものだ。単語一つひとつに神経を使いながら読むのではなく、文章全体の文脈や筋に従って流れるように読んでいく方法だね。この通読の能力がつくことで、かりに意味のわからない単語が混じっていても、文脈や筋の流れにそって文意が全体的に把握できるようになる。言葉一つひとつの意味ではなく、全体の文意が理解できるようになるんだ。不思議なことだが、かならずそうなる」

 

 「はあ、なるほど。でも、たしかにそうなるんだろうなという気持ちと、ほんとうにそんなにうまくいくのかなという気持ちが、正直、半分半分ですね」

 

 「いまは、それでもいいよ。やがて近いうちに、キミもかならずそうなる。人間が言語を自然に習得する過程で、だれにでもかならず起こることだからね」

 

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

翻訳文の場合には「照合できる」というメリットがある

訳文にしたがって副文の独立化を試みたわけであるが、いかにも無骨な文章になっていることは認めざるをえない。ただ、資本主義についてのどのような認識から、もとの文章が構成されていたのかという点だけは明確にしえたかもしれない。認識を構成する諸要素を取り出寸ことは原文の理解に寄与するはずである。個々の認識要素を、独立に議論できるようにしただけでも利点であると思う。

 ところで、筆者は以上のように書き直してはみたものの、正直のところ、確信のもてない箇所も存在する。こうした時には、当然のことながらトーニーの英語原文にあたって、原文から直接に副文の独立化を試みる必要が生じてこよう。

 このように、翻訳文の場合には照合の可能性が存在するが、一般の文章は、もとより翻訳文ではないので照合は不可能である。したがって、書き直した文が誤訳あるいは悪訳などとして論議されることはなく、ただ解釈の一例として提示されるのみである。そして照合の不可能性ということであれば、言うまでもなく、翻訳文の原文の言語で原文を論じるときにも生じてくる。つまり、われわれは原理的に言って、書き直し、つまり解釈の善悪を一義的に決定しうるような絶対的規準など所有していないのである。

 だが、解釈(書き直し)を続けることは、先人の思想を批判的に継承していくことであり、また運が良ければ、われわれの継承の仕方が次代によっても批判的に継承されていくということである。この点を念頭に置くならば、われわれは可能なかぎり明快に、自分たちの解釈(書き直し)を提示していかねばならないであろう。

  * 書き直しは、今日ではワープロこアークが入手できるかぎりにおいて、非常に容易である。著作権の問題もあるだろうが、書物の電子的デー夕の入手が容易になれば、読書会などにおいて、解釈の差を書き直しによって示すことも容易になるであろう。

 さて、原理的に言って、文の独立化は、その必要が感じられるときに初めて行なえばよいことであって、いたずらに試みても無益である。文の中で用いられている表現について、辞書などによって調べてもなおかつ曖昧さとか不鮮明さを感じるときに、あるいは解釈上の争いが生して、明確な解釈を打ち立てる必要に迫られたときに試みればよい。

悪文に対する対処法

中止法で書かれた文のほとんどは、より短い文に分解することができる。そして分解・独立させた文の方が、一般的に言って、理解しやすくなることは明白であろう。さて、中止法によって文を分解・独立させた場合、独立させられた文と、もとの文との関係をはっきりさせるために、枝番号をつけることが考えられる。

 中止法で書かれた文は、よほど文の構造が読者にわかりやすいように明示されていないと、いわゆる悪文を産出することが多くなる。ここでは、そのような悪文に対する対処法
を考えてみることにしよう。

 言うまでもなく、昔から多くの人が悪文には手を焼いてきた。まず、ここでは、『悪文』という書物において悪文の典型とされているものを引いてから、それに対する対処法を考えてみよう。

  * 岩淵悦太郎編著『第三版 悪文』、日本評論社、一九九二年。この本はたいへんな名著であり、文章に関心をもつ者にとっての必読書である。

 「エゴの位置するシテュエイションを破壊する為には、自殺まで辞さなかった潔癖さと、通俗性の中に埋没するのを辞さない時代への忠実さとが表裏をなして、それぞれの方向に解体していったところに大正の近代文学の運命があった。」(上掲書、一五頁)

この文が悪文とされる理由のいくつかは、『悪文』において見事に解明されている。「表裏をなして」という中止法の使用に、悪文となったかなり大きな原因があると考える。『悪文』の著者が言うように、「表裏をなして」はそこで一旦切れるのか、それとも副詞的に使われていて、「解体していった」に続いていくのかがはっきりしないのである。さらに、「解体していった」の主語が何であるかも不鮮明である。

 悪文を短文に分解することはきわめて困難である。書き干が本当に何事かを読者に真剣に伝えようとしているのかどうかが疑われる悪文については、お付き合いしないのがもっとも賢明な方法であろうが、実際問題としてはそうもいかない。その上うな場合には、悪文の悪文たる所以を明確に示すか、考えられるかぎりでの要素文を短文として取り出し、そして枝番号をつけたうえで、それらのありうる連結を示すはかないであろう。しかし、いずれにしても不毛な作業ではある。「悪文よ、消えてなくなれ」とつぶやかざるをえない。他方で、われわれ白身はみずから悪文を書くことのないように努めるべきである。そしてこれが、皮肉なことに「悪文に対する対処法」ということなのだろう。

『読み書きの技法』小河原誠著より

メタ文としての論理関係明示子

 メタ文について説明するためには、最初に対象文について説明しておかねばならない。対象文とは、世界―この言葉で何か考えられてもよい―内のもろもろの対象について述べる文のことである。たとえば、「このボールペンは書きやすい。」とか「この消しゴムはだいぶ小さくなってきた。」といった文は、私の身の回りの品々について言及している対象文である。また、たとえば「地球は約四十億年前に誕生した。」という文は、地球という対象に言及している対象文である。これに対してメタ文とは、たとえば、「『このボールペンは書きやすい。』という文は、日本語の文である。」といった文のように、文について述べている文である。対象文とメタ文とでは、言語の階層が異なるのである。メタ文は、対象文よりも一段階高い階層に属している。

 さらに説明を加えるならば、対象文が属する言語は対象言語と呼ばれ、メタ文が属する言語はメタ言語と呼ばれる。たとえば、英語が外界の対象について語るために用いられているときは、それは対象言語として用いられているわけであり、その英語の特徴や文法的構造について日本語で説明がなされるときには、日本語はメタ言語として用いられているわけである。もちろん、対象言語とメタ言語とは、同一の言語に属してもかまわない。「『このボールペンは書きやすい。』という文は、日本語の文である。」という例で示したように、対岸言語もメタ言語も日本語であってよいのである。一般に、われわれが言語について議論するとき、議論の対象とされる言語は対象言語となり、議論する際に用いている言語がメタ言語となる。メタ言語は高次言語と呼ばれることもある。メタ言語を対岸言語扱いして語る言語は、メタメタ言語と呼ばれる。

 対象言語とメタ言語の区別をはっきりと理解するとよいだろう。

 さて、対象文とメタ文についての説明が思いのほか長くなってしまった。実は、これら二つの区別は、うそつきのパラドックスのようなパラドックスを解消し、意味論的真理論と呼ばれる真理論を打ち立てるために、決定的に重要な役割をはたしたという歴史的背景をもった重要な区別なのである。

 歴史的な経緯には深く立ち入らずとも、対象文とメタ文の区別は、決定的に重要な区別である。対象文は基本的に、世界の事物について叙述したり議論したりするのに対し、メタ文はそうした対象文について解説したり、性格規定を行なったりするという役割をはたしているのである。したがってメタ文は、パラグラフあるいは文を解読していくうえで重要な手がかりとなる。われわれが目にする現実の文章の中においては、メタ文がそれとして明確な姿をとっていない場合もあるし、また書き手によっては、そもそも対象文とメタ文の区別をなし得ていない者もいる。したがってメタ文を兄抜くことが、実際に文章を読んでいくうえでは垂要となる。

『読み書きの技法』小河原誠著より

モルヒネの副作用の対処

 モルヒネによる癌疼痛のコントロールと同様に,その副作用にも注意を払って対処していかなければならない。モルヒネが引き起こす様々な副作用に対しては有効な対処方法が各専門書に具体的に記載されているが、特に下記の副作用に対してはモルヒネとの関わりを理解しておく必要がある。

 ① 嘔吐

 嘔吐はモルヒネの用量限界のサインではないことを医師を含め,他の医療従事者および患者が知っておく必要がある。特に患者へは,有効な制吐方法があり2週間ほどで吐き気も感じなくなるので,モルヒネの服用を続けるように指導する必要がある。皮下注またはエピ注に切り替えても制吐できない症例がまれに存在するが,その場合は他のオピオイドケタミンの持続投与などを行う。

 ② 便秘

 モルヒネによる腸管運動の抑制作用により便秘は必ず起き,かつこの副作用に対しては耐性が出来ないためモルヒネの投与を続ける限り,下剤でのコントロールを行わなければならない。便秘傾向を軽視すると,最悪の場合は浣腸や摘便にも反応しなくなり対応に苦慮する結果となる。ピコスルファート液など,患者自身が排便の状態に応じて用量調節できるタイプのものが望ましい。

 ③ 呼吸抑制

 モルヒネによる呼吸抑制は鎮痛に用いられる適切量であれば希であり,過量であればセデーションが先行するため‥鬯者のサインを見逃さないようにすることが重要である。まれに,痛みを止めるモルヒネ量とセデーションがかかるモルヒネ量が接近している場合があるが,鎮痛補助薬の併用でモルヒネ量を減らしクリアな状態を得ることが可能である。

 その他,幻覚幻聴,排尿困難などに対しては事前に対処のプログラムを作成しておくことで,適時副作用をコントロールしていくことができる。モルヒネが引き起こす副作用のほとんどは対処が可能であり,モルヒネの有効限界を示すものではないことを医師を始め,薬剤師・看護婦が熟知しておく必要がある。さらに副作用を呈した患者には,有効な薬物療法があり安心してモルヒネの服用を続けるよう服薬指導する必要がある。

モルヒネが有効な痛み

 Twycrossらは,癌における痛みについてオピオイドモルヒネなど)との関係を次の4つに分類している。
 ① オピオイドが無効な痛み
 ② オピオイドがある程度有効な痛み
 ③ オピオイドが有効な痛み
 ④ オピオイドが有効であるが,その使用が適切でない痛み

 ①は,痛覚求心路遮断による痛み,交感神経が関与した痛み,筋の攣縮に伴う疝痛などであり,抗うっ剤の投与や神経ブロックなど他の治療法が適応となる。②は,骨転移痛や神経圧迫痛などで, NSAIDsやコルチコステロイドをモルヒネと併用することで徐痛の質が高まる。③は,内臓転移や内部組織浸潤による痛みで,多くの癌疼痛がこれに起因しモルヒネが奏効する。④は,便秘や過敏性大腸炎などの大腸の機能異常に伴う痛みで,抗コリソ剤やメトクロプラミドなど消化管機能改善剤を用いるなどとしている。

 このように,痛みの質について予め知っておくことでさらに有効なモルヒネ投与が可能となる。

WHO方式癌疼痛治療法

 世界保健機関により癌疼痛救済計画が1986年から実施され,同時にWHO編集の(がんの痛みからの解放)が発刊された。 WHO方式癌疼痛治療法はこのWHO癌疼痛救済プログラムの中で,癌の予防,早期発見,治癒治療に次ぐ第四の癌対策として策定されたものである。また,これは世界中全ての病院,診療所においても使用できるように工夫されたものである。

 この中では,痛みの強さに応じて3段階に分けた鎮痛薬の選択順序と,治療に用いる基本薬のリストを示している。さらに,癌疼痛治療の基本原則を次のように要約している。

 ① by mouth : 経口投与を原則とする。
 ② by the ladder : 鎮痛薬を効力の順に選ぶ。
 ③ by the individual : 痛みの強さに応じて投与量を決定する。
 ④ by the clock : 時刻を決めて規則正しく投与する。
 ⑤ attention to detail : 副作用を計画的に(確実に)防止し、患者の

  心理状態に配慮する。

 これに伴い,わが国においても厚生省と日本医師会との編集による[がん末期医療に関するケアのマニュアル]が全国の医療機関に配布され,また1990年の麻薬取締法の一部改正に伴う医療用麻薬の取り扱い規制の改善が行われた。さらに同年,日本薬局方からモルヒネをはじめとする医薬品の全ての極量が削除されるなど,近年,癌患者の痛みの解放に積極的に取り組める環境が整い始めた。

 モルヒネの特性とモルヒネがもたらす副作用を中心に,癌疼痛におけるチーム医療などについて述べる。