翻訳文の場合には「照合できる」というメリットがある

訳文にしたがって副文の独立化を試みたわけであるが、いかにも無骨な文章になっていることは認めざるをえない。ただ、資本主義についてのどのような認識から、もとの文章が構成されていたのかという点だけは明確にしえたかもしれない。認識を構成する諸要素を取り出寸ことは原文の理解に寄与するはずである。個々の認識要素を、独立に議論できるようにしただけでも利点であると思う。

 ところで、筆者は以上のように書き直してはみたものの、正直のところ、確信のもてない箇所も存在する。こうした時には、当然のことながらトーニーの英語原文にあたって、原文から直接に副文の独立化を試みる必要が生じてこよう。

 このように、翻訳文の場合には照合の可能性が存在するが、一般の文章は、もとより翻訳文ではないので照合は不可能である。したがって、書き直した文が誤訳あるいは悪訳などとして論議されることはなく、ただ解釈の一例として提示されるのみである。そして照合の不可能性ということであれば、言うまでもなく、翻訳文の原文の言語で原文を論じるときにも生じてくる。つまり、われわれは原理的に言って、書き直し、つまり解釈の善悪を一義的に決定しうるような絶対的規準など所有していないのである。

 だが、解釈(書き直し)を続けることは、先人の思想を批判的に継承していくことであり、また運が良ければ、われわれの継承の仕方が次代によっても批判的に継承されていくということである。この点を念頭に置くならば、われわれは可能なかぎり明快に、自分たちの解釈(書き直し)を提示していかねばならないであろう。

  * 書き直しは、今日ではワープロこアークが入手できるかぎりにおいて、非常に容易である。著作権の問題もあるだろうが、書物の電子的デー夕の入手が容易になれば、読書会などにおいて、解釈の差を書き直しによって示すことも容易になるであろう。

 さて、原理的に言って、文の独立化は、その必要が感じられるときに初めて行なえばよいことであって、いたずらに試みても無益である。文の中で用いられている表現について、辞書などによって調べてもなおかつ曖昧さとか不鮮明さを感じるときに、あるいは解釈上の争いが生して、明確な解釈を打ち立てる必要に迫られたときに試みればよい。