ツィルゼルの学説の強み

 

 

 ところで中世ヨーロッパにおいては、「技芸」と「哲学」は別々の場所で、別々の人たちによって担われていた。前者には職人腦(基本的に無学であり、仕事の伝承は徒弟修業を通していたが、後者には大学の学者(基本的に子仕事を軽蔑していた)がたずさわっていた。「機械的技芸」とは、司教座聖堂の建設がら作画制作まで、さますまな職人芸を意味し、そういった子仕事従事者を社会階層として多数生み出したことはラテンーキリスト教徙界に特異なことであった。また、大学は十二世紀ルネサンスの帰結としてヨーロッパの少ながらざる都市に存在しており、基本課目を意味する「自山学芸」のほか、自然哲学、道徳哲学などの諸哲学を系統的に教育・研究し、法曹、医学、聖職に従事寸る専門職業人を世におくりだしていた。

 

 それら二つの社会的階層がルネサンスにおいて出会うことになった。それは、知識をもつ職人たち、別言すれば「高級職人」曾マ号Eに回巳が大挙して登場し、彼らが社会的に活躍することによって、あるいは大学ないしその周辺の学者たちが職人たちのやっていることを学習することによってである。このように「高級職人」という社会階層の登場によって近代の「機械的技芸」に基づく科学の成立を説明子る学説を提出したのは、エドガー・ツィルゼルであった(「科学の社会学的根源」一九四二年)。

 

 * ツィルゼルはオーストリアの「ウィーン学団」左派というべきマルクス主義者で、ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、そこで一九四四年、自害して果てた。

 

 ツィルゼルの学説の強みは、その主張を頭におくことによって近代科学の特性がよく理解できるようになること、そして近代科学の形成された場所とタイミングが説明できることである。弱点は「技芸」と「哲学」の出会いの様子があまりに一般的にしか語られていなかったことである。

 

 ツィルゼルによれば、近代科学は「機械的技芸」という職人的背景をもっている。このこと

は初期近代(近世)科学の中心核である力学=機械学(英語は両者ともmechanicsである)が自然の器械的操作(すなわち実験にほかならない)を通して形成された学問であることを示している。事実、ガリレオもニュートンも実験の達人だった。さらに、このことは、どうして科学革命が西欧で起こり、ほかの文明共同体では起こらなかったかについて考えるヒントも与えてくれる。中世ラテンーキリスト教社会は「機械的技芸」に携わる職人層を生み、しかも機械の使用に対する思想的反発をI般にもたなかった。これが、同じキリスト教文明でもローマーカトリック教会文明が、ビザンティンを中心とするギリシヤ正教会文明と大きく異なる点てある(リン・ホワイトージュニア『中世の宗教と技術』一九七八年)。

 

 しかし、職人層がいただけでは科学革命は起こらなかっただろう。科学革命を起こしたのは大学で教育をうけた学者で、とりわけ「哲学」(とくに自然哲学)に関心をもつ数学者だったのである。これは、ツィルゼルに反対する論者が提起した主要論点でもあった。ある意味で、正当な批判と言ってよい。しかしながら、大学のスコラ学的カリキュラム午七世紀まで西欧の大学のカリキュラムはスコラ学的であった)の枠内で思索していたほとんどの学者たちは近代科学の形成に関与しなかったのであり、むしろその外で職人たちの器械的操作技法を身に着けることを厭わなかった。異端的”学者だけが、近代の機械論的な数学的科学を創造しえた。すなわち、近代科学は「高級職人」的技芸の段階にとどまるのではなく、その技芸に学んで独自の仕方で「哲学」した学者たちによって建設されたのである。その際、大学という制度的背景もしばしば無視できない役割を果たした。大学は、徹底した討論の仕方、古代ギリシヤで生まれたディアレクティケーを什込んでくれたからである。このようなディアレクティケーを組みこんだ

 

 「哲学」が行われる場である大学で学ばなければ、ニュートンニュートンにならなかっただろう。ベネチアの造船所の技師たちの仕事の雰囲気からガリレオの実験的で数学的な運動学が生まれ、イタリアの外科職人(内科医学者とは区別されていた)の解剖技法を土台にしてィリアムー(Iヅイの血液循環論に始まる近肚医学は構築された。ガリレオも(Iヅイも大学で学んだ(ガリレオは大学を中途で退学したが)。そして、ガリレオの延長上にニュートンが来る。ニュートンが建設に従事した科学はすぐれて「テクノロジー科学」であったのである。

 

(科学論入門:佐々木力著)