フランス革命以降の科学

 

   テクノロジーに応用される科学の登場

 

本格的な「科学の時代」としての十九世紀―実験諸科学の理論化

 

本格的なヨーロッパの近代は一七八九年のフランス革命とともに始まったと言われる。実は本格的な「科学の時代」もその革命が進展するにつれて到来するのである。その最初の兆候は、近代テクノロジーの教育機関エコルーポリテクニクの開校(その前身が一七九四年開校され、翌年エコルーポリテクニクと改称された)とともに現れた。奇しくも、その学校はアルキメデス的伝統に洽う教育施設と見なされた。「テクノロジー科学」の担い子であったニュートンアルキメデスの理論数学的側面を代表していたと寸れば、エコルーポリテクニクはアルキメデスのエンジニア的側面を表しているものと考えられたのである。

 

 フランス革命以降の科学史の激動が今日「第二の科学革命」と呼ばれることは第一章3で述べた。この時代の科学の顕著な特徴は、まず古典力学以外の自然諸科学の分野がいくつも理論化されていったことである。

 

 十九世紀以降、科学の歴史になにが起こったのかを探るために、便宜上少し先回りし、十九世紀の最後の年、一九〇〇年のエピソードから話を切り出すことにしよう。一九〇〇年は思想史の分野でさまざまな画期的事件が起こったことで特記されるが(ニー子エの死、フロイトの『夢判断』・フッサールの『論理学研究』第一巻の刊行など)、科学史においても意義深い年であった。まず、この年バリで開催された第二回国際数学者会議においてドイツの数学者ダーフィトーヒルペルトが試みた講演「数学の諸問題」は、二す世紀の数学者が挑戦すべき問題のかずかずを提示した。そして、この年は物理学においても記念碑的講演が行われた。この講演は、十九世紀以降の自然科学者が成しとげたことがなんだったのかを知るうえで、きわめて重要である。ケルヴィン卿として知られた英国の物理学者ウィリアムートムソンが「熱と光の動力学理論を覆う十九世紀の雲」というタイトルの講演をロンドンのロイヤルーインスティテューション(マイケルーファラデイが、たとえば「ローソクの科学」など、夜間の講義を行った所として有名である)で行い、二十世紀の物理学が解決すべき問題を明らかにしたのである(講演は翌年『哲学雑誌』・に掲載された)。

 

 その記念すべき講演の中でトムソンは、古典力学を可能なかぎり外挿して拡大解釈しても解けるかどうか分からない問題が二つあると言う。あえてアナクロニズムを犯して現代的用語を使って解釈すれば、それらは以下のようになる。一つは、光の理論に関係している。光は当時電磁気学の対象として扱いうることが判明していたが、その電磁気学古典力学の関係はどうなるのか、という問題が未解決のまま残されている。もう一つは、熱の理論についてである。かなりの肩摩の物質はエネルギーを放射するが、そういった熱輻射の問題を動力学の問題として理論化していった場介どのようになるのか、という問題が解決されなければならない。

 

 これら二つの問題にはトムソンの講演がらそれほど年をおかずに一応の解決案が提示され、それらの解決案はいかにも二十世紀的な特徴をもった物理学理論となった。第一の問題は、アインシュタイン相対性理論によって解かれたと見なされ、第二の問題は、量子力学によって解決され、新たな理論が構築されたと考えられた。

 

 さて、トムソンの講演との関運で、十九世紀に理論化が成しとげられた二つの物理学理論が注目されねばならない。電磁気学と熱学である。電磁気学は、エールス犬スによる電流の磁気作用の発見二八二〇年)と、その逆現象である電磁誘導(磁石が回転すると電流が流れること)がフアラデイによって発見される二八三一年)ことによって本格的考察が始まった。世紀が進むにつれてその理論化・数学化が進展し、しまいにはマックスウェルによってヴェクトル場の数学的法則の形で定式化され集大成された二八七三年)。ちなみに、アインシュタインが最も尊敬していた科学者の一人はマックスウェルである。熱学のほうは、熱と力学的仕事の互換性がマイヤー、ジュール、ヘルムホルツによって認識され、さらに一般的にエネルギー恒存の法則が定式化された。熱力学という学問の形に集人成したのはクラウジウスである二八六五-六七年)。

 

 これら二つの学問は、古典力学とはその性格を異にしている。古典力学は古代から存在していた天文学の延長上にある理論であるのに対して、電磁気学も熱力学も古代・中世には先駆的理論をもたなかったと考えてよいからである。あえて詮索すれば、光学という学科が存在し、その現象が記録され、それの初等的な数学理論が成立していた程度であった。ところが十七世紀に事情は一変する。実験器輿が体系的に使用されるようになり、熟現象も電磁気現象も統御可能になりはじめるのである。温度計はガリレオの発案になる。静電気を貯めこむ装置であるライデン瓶は十八世紀半ばライデン大学で使われるようになったから、その名を与えられたものである。

 

 このように、天文学のように日常的に観測できる対象を考察の対象とするのではなく、実験装假を使い、自然現象を。人工的にすなわちある種。不自然にヘコントロールして、その法則性を探る科学をフベイコン的科学」という。フランシスーペイコンが熱心にそのような自然現象を記録することを唱道したためである(この命名は科学史家のターンによる。『本質的緊張』一九七七年)。十九世紀における電磁気学と熱力学の成立は、簡単に言えば、ベイコン的科学の理論化であったことになる。二十世紀の相対性理論量子力学は、この観点から見ると、十七世紀の古典力学と十九世紀に理論化されたベイコン的諸科学を統一する理論的試みであったことになる。

 

 ペイコン的科学はどうして十九世紀になって初めて本格的に理論化されたのだろうか? 熱力学の場合には理由ははっきりしている。それは、その科学が対象とする自然現象を日常的に現出させる産業革命が十八世紀半ばから始まり、十九世紀に入って本格化し、蒸気機関をけじめとする熱機関をより効率よく働かせるための理論の必要性が増したからである。ペイコン的科学の理論化を図ったのが子九世紀に専門職業化された科学者であったことを想起すれば、なおのことこの歴史的事情は判然とする。熱現象の理論化に邁進したフーリエカルノー、電気力学の数学化に貢献したアンベール(電流を計る単位としてのアンペアに名前をとどめている)らはエコルーポリテクニクの関係者であった。そして、クラウジウスとマックスウェルは、それぞれドイツと英国の制度化された研究施設における専門科学者であった。

 

 ペイコン的科学ないし実験科学は、産業のために利用できる科学でもある。十八世紀までは技術のほうが科学の形成に貢献した(テクノロジー科学)。十九世紀の半ばには、反対に実験諸科学はテクノロジーとして実現されるようになった。このようなテクノロジーが「科学に基づいた技術」と呼ばれることは前章で述べたが、筒単に「科学的テクノロジー」と名づけうる概念でもある。産業のために役立ちうる科学でもあるので、そのような場合には「産業化科学」(ジェロームこフヴェッツ『科学的知識とその社会的諦問題』一九七一年)とも呼ばれる。大学や科学アカデミーで行われる科学のように建前としては純粋学問として位置づけられる「アカデミズム科学」と対照させて案出された概念である。

 

 十七世紀には、例外的なものを除き、技術が科学に貢献するだけだったと言ってよかったが、こうして十九世紀になると技術が科学に寄与するだけではなく、今度は科学が技術に不可欠の構成要素になる。この時代以降、科学と技術の相互交流はごく普通のことになる。科学は基礎工学となり、技術は科学的テクノロジーになるのである。

(科学論入門:佐々木力著)