技術の社会科学理論

 

 

  「理論的な学の目的は真理であるが、実践的な学の目的は行為である」。これはアリストテレス形而上学』の中の言葉である(呂陟)。この文を手がかりにして言えば、科学が真理を目指すとすれば、技術は行為を目指す。そして行為があるところには政治がからか。科学が力であるとすれば、それは、とりわけ技術という実践を介して社会に参入しうるからである。科学以上に技術こそ力なのである。

 

 これまでの考察から明らがになったように、技術の発展にはそれを育む社会構造が影響している。そして社会構造をコントロールする人間の業こそ政治である。それゆえ、技術と政治との関係はきわめて密接なのである。

 

 中国の前近代技術が西洋の科学技術によって十七世紀以降凌駕されたという歴史現象を見た。こういった現象は、両者の前近代の封建制という政治構造を比較する手続きを通して理解できることをも示唆した。すなわち、文官官僚制的封建制の中国社会は技術を創造的に、動的に発展させよなかった。他方の西欧キリスト教社会は技術を発展させる構造をもっていた。

 

 官僚制社会は一般に技術の創造的発展を阻害する。中央集権化された官僚制は当初は大規模技術を実現させもする。だが、それが惰性化し、下からの創造的活力の導入を怠るようになると、技術を停滞させる要因として働くことになる。このような現象は別に前近代中国でのみ起こったことではない。私たちがごく最近目撃したソ連邦の崩壊という劇的現象の原因の一つも、同様の官僚制による技術発展の阻害であったと見ることができる。注意されるべきは、一九一七年十月革命以降、一九二〇年代末まで、ロシアの技術者は「ブルジョワーインテリゲンツィヤ」と呼ばれようと、ともかく大事にされたことである。転機はスターリンの政治的ヘゲモニーが確立された一九二八年ころに訪れた。それ以降、スターリンは意図的に政治的思惑にそぐわない技術者を弾圧する政策をとった言Iレン・R・グレーアム『処刑された技術者の亡霊-テクノロジーとソヴェト連邦の没落』一九九三年)。ほぼ同時期に開始された「第一次五ヵ年計画」以後、ノルマが上から設定され、そうして設定された量の遮二無二の追求が指令された。時に水爆やす宙計画のように成功裏に技術開発が成就されることもあった。けれども、一般にソ連邦では「質よりは量を」という習いが性となってしまっていた。スターリン主義官僚制社会と西欧先進資平手峩との確執は、はるか昔、前近代中国とキリスト教ラテン中世との競合の再現と見られるべきふしがあるのである。

 

 このように技術と社会構造、なかんずく社会構造を統御する中枢的機能を担っている政治は密接に連関している。このことはとりわけ十七世紀以降の西欧社会で真実であった。おそらく最初の技術の政治家ないし政治哲学者と呼ばれるべき思想家はフランシス・ペイコンであろう。彼以降、多くの思想家が技術について思索した。

 

 私が無視してはならないと考えるのは政治経済学(ないし単純に経済学)の伝統をつくった学者たちである。ここではマルクスシュムペーターを取り上げよう。

 

 マルクスはちょうど産業資本主義が高揚期を迎えていた時に知的な活動を行った。彼の一八四四年のバリ草稿『経済学・哲学草稿』には次のような注目すべき文言が読める。「自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活の中に入りこみ、それを改造し、そして人間的解放を準備したのであるが、それだけますます直接的には自然科学は、非人間化を完成させずにはやまなかった」。この一文を書き遺したことで、マルクスはすでに科学的テクノロジーについて著作した最初の思想家の一人として記憶されるに値する。彼は実際、「技術の思想家マルクス」と呼ばれるにふさわしい多くの洞察力あふれる文章を書いたことで知られる(コスタスーアクセロス『技術の思想家マルクス』一九六一年)。そういった研究は、彼以前の数多くの技術史・技術論の踏査を踏み台としてなされたものであった(吉田文和『マルクス機械論の形成』一九八七年)。

 * マルクスソ連邦の解体以降、意図的に葬り去られようとしているが、彼の思想はそれはどやわなものではない。誠実な再検討に値する、というのが私の考えであり、研究者が採りうる唯一の学問的態度である。

 

 右のバリ草稿の一文はいかにも抽象的であるが、マルクスは主著『資本論』を準備する過程で、技術に関する膨大な草稿を書いていた。なかでも注目に値するのが、工場で使用される機械とその起源について一八六三年にしたためられた草稿群である(新『マルクスーエングルス全集』(メガ)第二部第三巻6、一九八一章)。たとえば、彼は、中国の三大発明についてこう書いている。「火薬、羅針盤、印刷術1市民社会の前触れとなる三大発明。火薬は騎士階級を吹き飛ばし、羅針盤は世界市場を発見し植民地を作り出す。さらに印刷術は、プロテスタンティズムの、総じて科学の復興の手段、精神的に不可欠な諸前提のための最強の槓杆である」。最後の文は、プロテスタンティズムが聖書を信者自身が読むことを鼓舞した宗教なので、しばしば

 

 「書物の宗教」と呼ばれたことを念頭において書かれたものである。マルクスはその後、近世ヨーロッパを形づくった技術として、水車・風車ならびに時計に注目している。水車は古代技術、風車は中世ヨーロッパの産物である。さらに彼は、ドイツ語のテクノロジーにあたる言葉用いられたのが一七七二年でヨハン・ベックマンによってであったことも書き記している。

 

 機械を本格的に生産システムの中に採り入れた事件が産業革命であった。その第一波は、紡織機械の完成とともに訪れた。「運動を生み出す機械としての蒸気機関の使用は、この最初の 大産業革命につぐ第二の革命であった」。そのあと、科学が産業の中で利用されることがごく普通のこととなる。問題は科学がそういった産業社会の中でいかなる役割を演ずるかであろう。マルクスは端的に述べている。「科学は、労働に疎遠で労働に敵対しかつ労働を支配する能力として現れる」。彼はこう述べたあと、目下私たちが議論している問題に関して最も意義深い文章を書きっけることになる。「自然諸科学そのものについて言えば、生産過程に関係するすべての学識がそうであるように、資本主義的生産の土台のうえで再び発展を開始するのであって、資本主義的生産が、自然科学のために研究・観察・実験の物質的諸子段を大部分初めて作り出すのである。科学者たちは、これらの科学が資本によって致富の手段として利用される以上、科学の実際的応用の発見にしのぎをけずるのである。他方では、発明が特有の職業になる。それゆえ、科学的な要因は、資本主義的生産とともに初めて意識的にかつ一段高いレヴェルに発展させられ、利用されるのであって、以前の時代には思いもよらなかったほどの規模で呼び覚まされるのである」。マルクスに先駆者がいなかったわけではなかろうが、彼は「産業化科学」の現実を透徹した目でとらえた最初の本格的思想家であったと見てよさそうである。

 

 マルクスのような認識は二十世紀になると普通のこととなった。ヨーゼフ・A・シユムベーターはマルクスとは別の言葉で、産業の動的な発艇を分析した。それが『経済発展の理論』(初版。九一二年、第二版一九二六年)にほかならない。シュムベーターは、経済と技術を独自の合理性をもち、別々の目的をもったシステムとしてとらえる。経済システムの合理性はしばしば技術からの要求をそのままうのみにせず、自らの要求に従属させる。一定の経済システムのもとで技術は、さまざまなシステムを構成する諸要素の間の(シュムペーターの術語では)「結合」の重要な一成分をなす。経済システムが動的に拡人成長してゆくのは、丁足の「結合」が別の

 

 「新しい結合」にとって代わられて発展する場合である。シュムペーターはそういったことが可能になるのは五つの場合であると論ずる。第一に、新しい品質の製品が生産される場合、第二に、新しい生産方法が導入される場合、第三が、新しい販路が開拓される場合、第四が、新しい供給源が獲得される場合、第五が、新しい経済組織(たとえば、独占を実現できる)が出現する場合である。技術が直接経済システムに参入しているのは、第一と第二の場合である。要するに、今日の「技術革新」が先駆的にとらえられているのである。けれども、シュムペーターは技術のシステムを分析せず、ブラックボックスのままにしておいた。この点が彼とマルクスとの大きな相違点である。

(科学論入門:佐々木力著)