技術の社会構成主義

 

 

 それでは技術を社会の構成物だと考える見方はどのように近代テクノロジーを見るのであろうが? 私たちは先に技術決定論を技術が立法者であると考える立場たと規定したが、そもそも立法者という主権者がどのようにして定義され、社会の中で選出されるのかも問題とされねばならないはずである。ここに技術の社会構成主義的観点が成立寸る動機があると考えられる。したがって、技術の社会構成主義は素朴な技術決定論を批判的に見はするものの、技術が社会に与えるインパクトの大きさを否定するものではない。技術決定論を補完するごく自然な立場だと解釈できないこともない。

 が、今日、技術史家や技術の社会学の担い子たちは、そういった自然な発想以上のことを主張する。今日の社会構成主義の出現は一九八〇年代半ばのことであった。この観点の出現をうながしたのは、エディンバラ大学に拠点をおくデイヅイド・ブルアの『知識と社会表象』二九七六年、第二版一九九一年、邦訳では『数学の社会学』がメインタイトル匚なっている)である。ブルアは正しいとされる科学的知識(とりわけ数学的知識)にも、たんに経験的構成要素だけではなく、必ず社会的構成要素が存在すると主張した。それまで、誤った科学理論について、それがなぜ誤ったのか社会的次元での説明が求められることはあったが、正しい理論にも必ず社会的次元が存在するとしたところが新規な点てあった。そのため、科学理論の社会的次元の存在を 。強く″主張するこの主張は、ブルア自身によって「ストロング≒プログラム」と名づけられた。技術の社会構成主義の現代の主唱者はウィーベ・E・ハイカーという技術史家であるが、彼自身認めているように、技術の社会構成主義は、このブルアの「ストロング≒プログラム」を科学理論からテクノロジーにまで方法的に拡張したものである(『自転車・ベイクライト・電球-社会技術変動の理論に向けて』一九九五年)。要するに、技術には必ず社会的構成要素があると強く主張する観点なのである。

 

 技術の社会構成主義がどのようなことを主張するのかを例示するために、この観点が生み出されるもととなった、自転車の技術史をごく簡略化して見てみよう(ウィーベ・E・(イカー、トーマス・P・ヒューズ、トレヅアー・J・ピン子編『技術体系の社会的構成1技術社会学と技術史の新方川』一九八七年)。社会集団はさますまな欲望を抱えている。交通機関に速さを第一義に要求する者もいれば、安全性を第一義に要求する者もいる。両者の要求が共存できる場合には問題なく二つの価値を統合した制作物が作られよう。だが、しばしばそうはいかず、たとえば、速さと安全性が共存しえない場合がありうる。速さを第一義と考える時には、細い車輪でスピー ドの出る歯車の組み合わせの自転車が考案される。だが、これでは多くの女性は敬遠してしまうであろう。それで、安全性を第一義と考えた、太いタイヤで速さが遅くなる歯車の組み合わせの別のモデルが設計されることになる。このように、社会的要求によって、制作される自転車に反映する技術は異なってくるのである。

 

 以上の事例を補強するもう一つの例を取り上げよう。私か伝聞で知っている知識である。第二次世界大戦中、日本軍はきわめてすぐれた戦闘機をもっていた。たとえば、海軍の主力戦闘機であった零式戦闘機(略して零戦)である。その機体は軽く、すぐれた操縦技術をもつパイロットはそれを機敏に操ることができた。それが連合国側の戦闘員を手こずらせた理由であった。が、それは弱点をもっていた。機体を軽くするために、たとえば操縦士の背後の防護壁がそれほど頑強に作られていなかったのである。反対に、戦争がかなり進んでがらの米軍の戦闘機は人命尊重を第一義と考えたため、防護壁を強固なものにした。それで重い機体を駆動するため、強力なエンジンの開発に全力を注いだ。日本軍がパイロット技術の向上を目指して訓練に命を賭けたのに対して、米軍は反対にパイロットの人命を尊重し、強力なエンジンの作製に励んだわけである。このように社会的要求の相違は航空機技術にも反映した。技術は自律的に発展するのではなく、社会的要求を反映する、つまり、社会的に構成されるのである。

 

 技術の社会構成主義の今日の言い分は、技術が社会に及ぼすインパクトを認める一方で、技術の社会的基盤をも重視するということである。ハイカーが言っているように、「技術的なものは社会的に構成され、社会的なものは技術的に構成される」。すなわち、作用は相互的だというのである。「社会は技術によって決定されるわけではなく、また技術は社会によって決定されるわけではない。両者は、技術制作物、〔歴史的〕事実関係、関連する社会集団が構成される過程で、社会技術的なコインの両面として出てくるのである」。

 

 技術をさますまな社会的要求の渦巻く構造から一定の方向性をもって構成されるものと見、さらに社会を駆動する一つの構成要素と見る立場には説得力がある。かつて、科学史家のターンは、ブルアの「ストロング≒プログラム」が提出され始めた時、ブルアがあまりに科学理論の社会的次元を強調しすぎるという感想をもったのであるが、今日の技術の社会構成主義にも同様のことが言えるかもしれない。すなわち、次のことは依然として正しい技術の内的要素、すなわちできることとできないことは社会的に決まるわけではなく技術内部の事情でかなりのことは規定される。このことさえ容認されれば、技術の社会構成主義は、当面、実り多い作業仮説として、尊重されてしかるべきたと言えそうである。