ヨーロッパ中世以降の技術と「軍事革命」

 

 

 ヨーロッパの科学技術の曲線は中国のそれと横断したことになっている。しがし、西洋の上昇曲線は中世初期からすでに始まっているのである。中世ラテン世界のどういった要因が一六○○年ころの横断に貢献したと考えられるのであろうか? その要因はのちのルネサンスや十七世紀の横断の遠因とも見なされうるだろう。

 

 この問いに対しては、簡単に、ヨーロッパーキリスト教社会が大学という高等教育施設と技術をうまく制度化しえたからだ、と答えることができる。ヨーロッパ世界は八世紀ころから独自の形を取り始めたと言われる。構神的にはキリスト教を自らのものとし、政治的には軍事‥貴族制的封建制の形態をとり、古代とは異なる独自の共同休的体質を固めていったわけである。ベルギーの中世史家アンリーピレンヌは『マホメットシャルルマーニュ』二九三七年)と題された遺著で、アルプス以北を中心とするヨーロッパ世界が誕生したのは、ムハンマド(マホメッ上を教祖とするイスラームに対抗したシャルルマーニュの時代であったことを説いた。また、ピレンヌに優るとも劣らないフランスの歴史家マルクーブロックは『フランス農村史の基本性格』において、北ヨーロッパで(地中海ヨーロッパではなく)農業生産性が向上することによって中世封建社会の経済的基盤が螫ったことを論じ、さらに『封建社会』でヨーロッパ封建社会の共同体的性格を一般的に特傚づけた。

 

 これらの研究に示唆を受け、技術史の観点から、どうしてヨーロッパ封建社会が一定の経済的基礎を固めて離陸できたかについての説得力ある議論を展開したのがリンーホワイトこンユニアであった。彼は名著『中世の技術と社会変動』二九六二年)において、騎馬戦を容易にした鐙に注目し、また農業生産性を高めた技術的要因としては重量犂の開発と定着が決定的であると説いた。さらに機械時計を中心とする機械装置も中世ヨーロッパで発達したことを跡づけた。

 

 そのキリスト教的背景を探究した書が『中世の宗教と技術』という論文集であった。彼は、その中で十一世紀中葉のヨーロッパにはすでに「エンジニア」と呼びうる社会階層が存在していたとし、さらに、「遅くとも1350年ころよりあと、ヨーロッパは工学的技術革新において中国を凌いでいた。主たる理由はヨーロッパの金属加工における技能の成長であった」「中世の工学と知識社会学」)、と結論づけている。軍事乱貝族制的封建社会としてのヨーロツバーキリスト教社会は、技術発展を促進する共同体であり、その結果、中世後期には技術力において中国を凌駕する実力をもっていたというのである。キリスト教という宗教が技術を鼓舞 したとはどういうことか、といぶかる方もおられるかもしれない。けれども、神という絶対者の前での人間の本質的平等をうたい、「働くことは祈ること」という標語を掲げて労働を奨励した(これが古代社会との大きな相違である)教義が、人間の労働を助ける目的で、その一環としての技術をも鼓舞したからといってなんの不思議もないのである。

 

 中国の技術的発見のうち火薬と航海用磁針が、軍事目貴族制的封建制下で技術を促進していたヨーロッパーキリスト教共同体にもたらされると、西欧を越えて世界に大きな衝撃を与える事件が起こることになった。それは今日「軍事革命」と名づけられている。この概念の使用は、マイケルーロバーツというスウェーデン史家の『軍事革命』をもって嚆矢とする。ロバーツの萌芽的研究はもっと本格的なジェフリー・バーカーの

 

 『軍事革命-’-軍事的革新と和洋の勃興、という著書に結実した。軍事技術は多様な技術の中のほんの一部分にすぎないが、私たちが目下取り組んでい中国あるいはもっと広く東アジアの技術との比較という観点からは尋常ならざる意味をもつ。

 

 バーカーの説によれば、火薬の製法は九世紀の中国で最初に発見され、それが大砲に利用された最初の事例はコ一八一年の日本への元寇であった(弘安の役)。中世後期に火薬を利用した銃砲技術は軍事工只族制的封建制下のヨーロッパに届いたが、そのヨーロッパーキリスト教世界はイスラームートルコと対決し、また内部の諸国も群雄割拠して抗争しあっていた。そして十五世紀に軍事革命の時代に入る。それを特徴づけるのは、軍艦の舷側砲搭載、戦闘におけるマスケット銃(銃腔に旋条がない銃)の重要性の高まり、兵力の未曾有の増強、要塞建設技術の発展などである。この軍事革命という。(Iドウェア的”背景があったからこそ、西洋はアフリカ、中南米東南アジア地域を自らの軍事‐政治的支配下におきえた。現地人がどう西洋白人を見たかに関して、バーカーは次の言葉を書き記している。「彼らが出会った白人はみな戦い方が汚く、さらに困ったことには殺すために戦う」。ヨーロッパの軍事革命はマキアヅエッリの政治哲学を同伴者としていたのである。一五七五年の長篠の合戦における勝者である織田信長が、鉄砲を前面に出して斉射する戦術の考案者で、かつ日本で最初のマキアヴェリストと呼ばれるに値する人物であったのは決して憫然ではない。

 

 イタリアの経済史家カルロ・M・子ポッラは『銃砲・帆船・帝国-‐-技術革新とヨーロッパ膨張の初期局面、一四〇〇―一七〇〇年』二九六五年)の中で、軍事革命における銃砲と帆船の技術的側面に焦点をあてている。そこで彼は、ヨーロッパ中世の軍事‥貴族であった騎士がルネサンス以降の軍事革命の担い子として別の価値観の持ち主に転化していった過程を次のように描いている。二五〇〇年までに、ヨーロッパの事態はますます新たな社会集団の支配下におかれるようになり、彼らは個人的卓越性よりは組織に、勇壮さよりは効率に対する嗜好をも つていた」。軍事技術もが「効率」の友として発展させられたことは言うまでもない。

 

 しかしながら、十九世紀初頭までの軍事技術力では、ヨーロッパは古い伝統文化をもつ東アジア諸国を支配下におくことは杢同能であった。バーカーは、ナポレオン時代に、次の「軍事革命が始まったと言えるかもしれない」、と自らの守備範囲の時代の軍事革命の歴史記述を締めくくっている。実際、私たちは十九世紀と二子世紀において、ヨーロッパのみならず世界総体が波状的な軍事革命のただ中におかれたことを知っている。そこでは実験諸科学に基づく技術が不可欠の役割を演じたことをもI。

 

 中国と日本はヨーロッパから地理的にだけでなく文化的にも遠いところにあった。そのため、ルネサンスから十八世紀までのヨーロッパ軍事革命の第一の波の犠牲にはならずにすんだ。中国と日本に欧米の触子が伸びるには、さらなる技術的手段が必要とされた。それを主題的に問題にしているのが、ダニエル・R・ベットリクの『帝国の子先-十九世紀の技術とヨーロッパ帝国主義』二九八一年)にほかならない。ベットリクは、西洋帝国主義によるアフリカ、インドなどの植民地化の技術的前提として、まず子始めに高性能の蒸気船、熱帯地方の病であるマラリアに対処する薬物としてキニーネ、そして速射ライフル銃と機関銃、最後に、電信などの通信手段、鉄道技術をあげている。これらの技術の多くは十九世紀の実験諸科学の飛躍的発展に依拠しており、これらの技術をふんだんに使用してこそ、アヘン戦争二八四〇-四二年)における英国の中国(清)に対する勝利が可能であったことは詳説するまでもない。

 

 幕末期の日本には、欧米帝国主義の脅威に対抗するために軍事技術の整備を訴える人々がいた。銃砲における高島秋帆がその殼急進派であった。そして、それまで部分的には船舶に洋式を採り入れることもやふさがではなかったわが国が「本邦の制度に触れない限り、有用の西欧技術を積極的に摂取する政策への転換を宣言した」のは、ペリーが江戸内海に侵人した一八五三年夏の直後であった(安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』一九九五年)。ペリーが率いた「最先端技術の汽走軍艦を擁する艦隊」(加藤祐三『黒船前後の世界』一九八五年)が当時の日本人にとっていがに人きな恐怖の的であったかが理解できよう。西洋数学がわが国で最初に系統立てて教えられるようになるのは一八五五年開所になる長崎海軍伝習所においてのことである(『日本の数学一〇〇年史』上、一九八三年)。数学もが当初は軍事科学の一環として学ばれたわけである。

 

 前近代の日本は西欧社会と似て軍事-貴族制的封建制度を採っていた。わが国が、特異な士族封建制社会から近代社会へと、ある種の歪みを伴っていかに離陸したのかの歴史は、それ自体興味深い研究題目である。明治維新は日本国内の政治的脈絡だけではなく国際的環境の中でのみ初めて十全に理解することができる、という主張には説得力以上のものがある(芝原拓自『日本近代化の世界史的位置』一九八一年)が、政治的環境という。ソフトウェア部門”についてたけではなく、テクノロジーというバードウェア部門”に関しても世界史的観点が導入されねばならない。

 

 * 西欧と日本の封建制を比較し、類似点と相違点をえぐり出す作業は面白い。それらは、中国や朝鮮のような文人官僚制を採る社会とは相違していたのである。比較の子がかりとして、たとえば次を見よ。トーマス・G・スミス『日本工業化の内在的諸要因、一七五〇-一九二〇年』一九八八年。

 

 科学や技術が最も否定的に機能する場面が戦争である。よりよく殺傷するための火器を作るのに科学の助けは不可欠になった。ノーベルによって開発されたダイナマイトは土木工事を容易にしたと同時に、戦争形態をも大きく変えた。毒ガス兵器を大々的に使用した第一次世界大戦は「化学戦争」と呼ばれ、レーダーを使用し、原子物理学を原子爆弾という兵器に体現させた第二次世界人戦は「物理学戦争」と呼ばれた。近代科学技術の受容に関して非西洋世界の優等生であった日本が一九四五年にその精華というべき原子爆弾の洗礼を浴びねばならなかったのは、長期の永続的な世界的規模での軍事革命の帰結というべき一大悲劇であった。その真の歴史的意味は、ヨーロッパ中世後期以来の軍事技術の。発展”を省みることによって初めてとらえることができる。わが国の近代はその意味で世界の科学技術のそれまでの歴史の集約点万あると見ることも可能なのである。

(科学論入門:佐々木力著)