中国技術の停滞・西欧技術の急成長の要因

 

 

 ルネサンスにいたるまでは中国技術が西洋のそれに優るとも劣らないほどの水準を保っていたことが認められるとして、どうしてそういった中国技術が、ルネサンス以降の西欧技術に追い抜かれてしまわなければならなかったのであろうか? この問題は、技術だけではなく科学をも考察の対象に含めて、その提起者の名前を冠して「ニーダム問題」と呼ばれることがある。ニーダム自身が作成したものなので(『東と西の学者と工匠』)、便宜上、フーダムーグラフ」と名づけておくことにする。時にほかの科学史家によっても援用されることがある(たとえば、H・フロリス・コーエン『科学革命「『ヒストリオクラフィー的研究』一九九四年)。ここの図はニーダムの原図をもとにそれを簡略化して作成したが、ニーダムが科学と技術を無分別に混同し(混同する理由が十分あるとはいえ)、また古代ギリシヤ科学と中世以降の西欧科学を接合させ、西洋という大きな地理的枠組みでくくっているので、彼のグラフで批判的に見られるべき点がないわけではない。しかしながら、思索の手がかりとして有用であることに変わりはないので、ここでは主として中国技術と西洋技術(しばしば科学)の発展趨向を描いた図と解釈して、援用することにする。 中国の科学技術は漸進的に上昇しているように描かれている。西洋の曲線は古代ギリシャの高揚期が終わると急速に低落し(古代の終焉)、停滞の長い時代(中世初期・中期)を挟んで、ガリレオの時代の直前のルネサンス期に急激に上昇曲線に転じている。古代ギリシャに高揚期をもったのは主として、技術ではなく、科学の分野においてであることはとくに断るまでもなかろう。問われるべきは、なぜ中国が西欧のルネサンス以降のような急成長をみせなかったかである。あるいは、中国のグラフが緩いにせよ上昇直線であることに鑑みれば、むしろどうして西欧の科学技術が急成長したのかが問われなければならないのかもしれない。

 

 この問題にはニーダム自身が答えの試案を提起している。彼によれば、科学技術発展の型の相違は、人種的特徴に由来するわけではなく、近代以前の両者の社会構造の相違から説明できる。その説明は、非教条的なマルクス主義者らしい答えで、説得力がある。ヨーロッパの封建制は中国の封建制と異なっていた。「ヨーロッパの封建制は軍事卜貴族制的封建制であった」。そこでは騎士身分にある「剣の貴族」(軍事‥貴族)が大きな役割を果たした。「戦争の時には、王は封建組織の自分より下の階級の助けを借りなければならず、その階級は一定の人数の兵士を率いて王の下に馳せ参じる義務があった」。これに対して、「中国の封建制はそれとは非常に異なっていた。それは昔からいみじくも官僚制的封建制と呼ばれてきた。この官僚組織は組織の規模と複雑さにおいて、ヨーロッパのけちな王国などおよそ比べものにならないほどのものだった。現代の研究で明らかになったところでは、中国の官僚組織はその初期の段階では科学の発展をおおいに援助していた。後期になって初めて、それは科学がさらに発展するのを強引に抑えこみ、とくにヨーロッパに起こったような飛躍的な進歩を阻んだのである」(ロバート・K・Gこアンプル『図説中国の科学と文明』一九八六年、に寄せたニーダムの序文)。融通のきかない牢固たる官僚制が科学や技術の発展を抑圧した、とニーダムは主張するのである。そういった封建制の相違の根底には、さらに西欧の商業を鼓舞することになる牧畜-航海文明と対照的に、中国が灌漑農業文明であったことも指摘される。

 

 山田もニーダムとほぼ同意見である。彼によれば、秦・漢で成立をみた官僚制は中国の科学と技術の発展に独自の型を与えた。一般に、官僚機構のもとでは科学と技術は、それに関係する多数の人材を吸収し、発展を刺激される。知識の継承も確実になされ、事業の大規模化も可能になる。反面、発展の重点を国家目的に有用なものだけに置かせることにもなる。そして伝統的類型的なバターンが繰り返され、革新は起こりにくくなる。山田はこれこそ官僚社会、中国に起こったことであるという(『制作する行為としての枝術』一九九一年)。

 

 それでは、ガリレオ以降の西欧近代科学は中国科学を全面的に凌駕しえたであろうか? 二Iダムは、いまたその段階にはいたっていないと考える。中国は数学や、天文学・物理学など精密自然科学の分野では、ぼやぼやと西洋に乗り越えられた。化学がそれらに続いた。しかし、科学が生命を扱い、有機体論的性格を濃くしてくればくるほど中国の知識は西洋に凌駕されにくくなる。とりわけ医学がそうである。西洋近代医学はたしかに中国の伝統医学のかなりの部分を乗り越えることができた。が、いまだ完全にではない。ニーダムがその一例と見なすのは、鍼療法である。それがなぜ効くのかの解明は中国・口本大西洋の協力でぜひなされねばならない。ニーダムは語っている。フヤがてこの方法の科学的原理がきっとみつかるでしょう。しかし、それまでは、中国医学と近代西洋医学は融合しないでしょう」(『東と西の学者と工匠』、第十九章「普遍的な科学の進化におけるヨーロッパと中国の役割」)。

 

 先ほども触れたが、中国の科学技術と西洋のそれを比較する際に注意されるべきは、中国の停滞というより、西欧近代のほうがある意味で異常なμ程度に急成長を成しとげたと考えられるのではないか、ということである。その要因はさまざまに考えられる。「近代」という時代を生み出した十六・子七世紀の人規模な社会変動を考える説が有力である。ルネサンス宗教改革や近代資本主義の形成をも含む人変動かこの時期の西欧社会を襲ったというのである。私は、近代科学を形成させた要因として、巨大な政治・経済にわる全般的危機)とそれに有効に応えようとする変革運動の中での、「機械的技芸」の地位向上、およびそれへの国家の取りこみとを、最も重要なものと見なす。そういった取りこみに成功した政体のみが近代国家への脱皮に成功したのである。英国やオランダやフランスがとくにそうであった。 そういった近世の歴史過程を準備するうえで、中世以来の技術の発展が長期的には決定的役割を果たしたことにも議論の余地はない。今度はそうした前時代にも光をあててみよう。