イスラーム世界・中世ラテン世界で近代科学が生まれなかった理由

 

 

 ここで、どうしてイスラーム世界、ラテン-キリスト教世界で近代科学が生み出されなかったのか、その理由を考えてみることにしよう。これらの文明は、アルキメデスの数学を頂点とする古典科学を所有していた。それのみならず、イスラームキリスト教の教義は、労働を重視するエートスを育てており、実践的知識をもそれなりにつちかっていた。それなのに、どうして近代科学を生み出しえなかったのだろうか?

 

 イスラーム文明から考察してみよう。イスラーム科学、アラビア科学と一口に言っても、イスラームの教義が普遍的に古典科学を鼓舞していたわけではない。アラビア科学の研究の中心「知恵の館」を八三二年に問設した教皇マアムーンは、イスラームの正統派ではなく、ムアタズィラ派という異端的宗派の帰依者であった。ムアクズィラとは正統的教義から「離脱した者」を意味する。彼らは理性を真理の規準と認める「合理主義者」で、それゆえギリシヤ的思考法をことのほか称揚した(井筒俊彦イスラーム思想史』一九七五年)。が、彼らがこの世を謳歌した時代は長くは続かなかった。信仰の内面化、主体化を主張し、ギリシヤ的で理性的な哲学に対する批判を展開したガザーリーなどが登場する十一世紀後半になると、古典科学への意欲は沈滞しはじめるのである。イブヌトル‥(イサムはギリシヤ的思考を畏敬した学者であったが、ある人は彼の著作が「一人の敬虔な法学者によって火に投ぜられるのを目撃している」(アンリーコルバンイスラーム哲学史』一九六四年)。ギリシヤ的哲学、古典科学が、イスラーム正統派の宗派的不寛容の犠牲になったわけである。

 

 イスラーム世界が生んだ最高の歴史家、イブンー(ルドウーンは二一七七年に草された『歴史序説』において、専制的体制が採られ、イスラーム法が人々の慣習にすぎないものとなった時にどういったことが起こるかについて書いている。「公権威に対する恭順が人々の性格にまでなってからは、彼らの自立的な勇気ある気風は弱まってしまった」(第一部竿2言。(ルドゥーンはイスラーム文明の白鳥の歌をうたっているのである。

 

 要するに、アラビア科学は、それを鼓舞する思想的基盤がなくなった時、衰退に向かいはじめた。むろん(ルドウーンがイスラーム文明の白鳥の歌を書く前の十三世紀にはモンゴルが侵入して政体は危機に瀕し、址中海貿易の支配権を失うことによって経済が停滞するとともに、イスラーム社会は世界をリードする文明共同体ではもはやなくなっていた。しかし、それ以前に思想的不寛容が意図的に科学を圧殺しつつあったのである。

 

 今度は中世ラテン科学に目を転じてみよう。そこでは、たしかに職人層が活発に仕事をし、大学人は熱心に討議し、思索していた。古典科学も大学にある程度根づいていた。けれども、職人たちは無学なままであったし、他方の大学人の主たる興味は、道徳哲学を中軸とす心神学、すなわち江戸時代の儒学と同じく、倫理にあった。医学は古典研究を中軸とする「典籍医学」であった。法学もローマ法の研究などヨ目典研究にあった点て、儒学に似ていた。

 

 思想的基盤はアリストテレス哲学であった。数学の学習を第二義的であると主張した十六世紀後半のある哲学文書は、その論拠として、数学は「存在」(回已と「善」合目白)にかかわらないことをあげている。この哲学文書が依拠していたアリストテレス主義的考えによれば、数学は「存在」(あるいは「実体」)から「抽離」された「形相」の一部分を扱うにすぎず、また当然、倫理的善行とも直接には関係しない。それで、数学を第二義的に熱心に学ぶ必要はない、というのである。今日の科学哲学者のある者が繰り返し説いていることも同工異曲と言えるほど(!)、ある意味で当然至極の主張である。

 

 こういったアリストテレス主義的主張に対して公然たる批判の刃がつきつけられたのは、新プラトン主義的認識論の観点から数学の学習を鼓舞したプロクロスによる『原論』第一巻への註釈書がラテン語に翻訳されて紹介された時であり二五六〇年)、この著作の思想は、『原論』の、イエズス会の指導的数学者クリストフークラヅイウスの編集になる第二版(コ五八九年)に取りこまれた。そして、クラヴィウスの数学思想が、今度は『原論』の一五八九年版を介して、ガリレオ、デカルトなど十七世紀の主要な思想家によって読まれ、新たな思想を醸成する養分となった。

 

 中世ラテン世界のアリストテレス文書をひもとくと、数学的知識を過人に評価しないように説いたくだりに飽きるほど出会う。江戸時代の懦学者が、無用な数学の隘路に迷いこんで人倫の本道を忘却しないように説いていたようにである。要するに、この文明共同体でも、数学と自然哲学の結合は意図的に押しとどめられていたとみてよいふしがあるわけである。

 

 結局、イスラーム世界でも中世ラテン界でも、たしかに職人層が存在し、高等教育も一定程度社会の中に根づいていた。しかしながら、自然哲学は周辺的学問にとどまり、さほど重視されなかった。それのみならず、それをテクノロジー科学へと飛躍させるのを阻む思想的歯止めが厳として存在していた。それからまたテクノロジー科学を成立させる社会的弾みも存在していなかったのである。

 イスラーム世界には、マドラサと呼ばれる高等教育施設があったが、十分体系化されたカリキュラムをもっていなかった。

 

(科学論入門:佐々木力著)