アラビア科学・中世ラテン科学

 

 

ギリシヤの理論的精神はディアレクティケーによって育まれ、それは数学においてはユークリフトの『原論』、哲学においてはプラトンのさまざまな対話鎬の中に生きて継承されてゆくことになった。それでは、ギリシヤの科学的精神を最高に華咲かせた人はどういった人物なのであろうか? その人物がギリシヤ科学、アラビア科学、ラテン科学を統一的に特徴づける古典科学の子ヤンピオンであれば理想的である。その仕事をすることによって、古典科学の一般的性格をも浮き彫りにできるかもしれないのである。

 

 その人は端的にアルキメデスである。紀元前三世紀のシュラクサに生きた彼こそは、古代ギリシヤがらラテン中性までを支配した古典科学の最高の担い子であった。彼は数学者であった。このことは古典科学がすぐれて数学および数学的諸科学によって代表されることを示している。アルキメデスに匹敵するかその次に位置する学者をあげよ、と言われたら、人は『アルマゲスト』の著者で紀元後二世紀に生きたクラウディオスープトレマイオスを名指すであろう。彼は数学的天文学における古代最高の体現者であった。

 

 アルキメデスは無限小幾何学についての著者としてなにより著名である。円錐曲線の一種パラボラの求積(面積・体積を求めること)を成功裏に行い、球とそれに外接する円柱の体積比較などを試みた。また流体静力学、機械学の著作をも書いた。その研究方法は『機械学的な定理についての方法』で克明に解説されている。そこで彼は数学的定理の機械学的発見の仕方(天秤を利用する)とそれの幾何学的証明について詳細に説いているが、その証明の仕方が、先に述べた間接証明(帰謬法)であるのが印象的である。西洋的伝統以外には見あたらない間接証明を用いて厳密な証明を行っていることが、理論の高度なレヴェルのI指標なのである。

 

 * 一九〇六年デンマークの占典文献学者ヨハン・L・ハイベルクによってイスタンブール僧院から

 

  バリンプセーストン(二度書きされた羊皮紙)の形で劇的に発見された文書である(佐藤徹訳・解説 『アルキメデス方法』一九九〇年)。

 

 アルキメデスの著作群は、彼自身も訪れたことのあるアレクサンドリアからヘレ几スム世界全体に波及した。そしてさらに、アラビア科学の中心地であるバグダードへ、そしてカイロへと伝播した。アルキメデスの著作を自家薬箆中のものとし、アラビア世界最高の数学者の一人と数え上げられる業績を遺したのは、カイロで死んだイブヌトルトハイサムである。彼は数学的諸科学全般に通じ、数学プロバーたけではなく、天文学では「第二のプトレマイオス」と呼ばれたほどの才能を示し、また光学の分野では古代ギリシヤ以降の全伝統を覆し、視覚理論を、目から光が物体に届いて見える「触覚モデル」がら、光が目に飛びこむことによって絛が生ずる理論へと転換させた。ハイサムの光学書け、ラテン語に訳され、ケプラーの登場までは最も標準的な典拠としての扱いをうけた。ハイサムはキリスト教世界では、彼の名アルトハサンをラテン語化したアルハゼンによって親しまれた。

 

 * アルキメデスの作品がいかにしてアラビア科学の財産になっていったかについての全容は、東京大学のロシュディニフーシェド教授によって雅明されつつある(『九世紀から十一世紀までの無限小数学』第一巻一九九六年、第二巻一九九三年、さらに続刊の予定)。

 

 アルキメデスの著作は、主としてアラビア語を介して、時にギリシヤ語から直接、一ブテン科

学に入った。アルキメデス的精神で思索した学者の一人がナ三世紀初頭活躍したヨルダヌスで

ある。彼の静力学に関するラテ言語の子福の発見こそ、カトリック物理学者ピエールこアユエ

ムをして中吐ラテン科学研究に駆りたて、その熱狂的パイオニアにした事件なのであった。中

世ラテン科学史研究が二十吐紀に起こるについては、こういった逸話があったのである。

 * その全容の解明はラーシェド教授に先だってアメリカの科学史家マーシャル・クラーゲットによってなされた(『中匪のアルキメデス』令五巻、一九六四-八四年)。

 

 ルネサンスになって、アルキメデスの作品は厳蜜な文献学的子法で編み直され、エンジニア(こういった呼称を使ってよい十分な理由がある)数学者によって研究された。そうして、アラビア科学、ラテン科学には見られなかったほどの独創的な研究が生み出されることになる。ガリレオが殼も尊敬していた先駆者はアルキメデスであった。幼少期から数学の才能に恵まれていたクリスティアンホイヘンスは「アルキメデス」がニックネイムであった。ブレーズーバスカルの数学的業績もアルキメデスの直接的延長上にあるものであり、彼も姉たちから「アルキメデス」と呼ばれた。ニュートンとライプユッツが登場することで、アルキメデスはその古典科学の第一人者としての役割を終えることになるが、それは無限小代数解析と呼ばれるべき微分積分学が彼らの手によって創造されることによって、そして古典力学によって、二日で言えば、十七世紀の科学革命による西欧近世科学の形成によってである。このように古典科学の最も高い尾根は、ある意味で、アルキメデスの著作の伝承をたどることによって鳥瞰できる。

 

 * 古典科学は、西洋科学と言いうるものなのであろうか? ほとんどがギリシャ語で書かれた著作を始原としたのであるから、なるほど西洋科学と呼びうる可能性があることは問違いない。が、エジプ

  ト出身のアラビア数学史の研究者ラーシェド教授はこのような観点に猛然と反対寸る。古代ギリシャ科学のセンターはアレクサンドリアにあった。現在のエジプトの地中海に面した都市である。ラーシェド教授によれば、古代のアレクサンドリアはヘレ三ズム世界の国際都市であった。アレクサンドリアの科学が、それゆえ、イスラームの別の国際都市であるバグダードアラビア語に訳されて移動するのは、それほど不思議なことではない。こういった論拠で、彼は古典科学がもっぱら西洋の産物であるとするコ茹1‐‐1洋中心生義的」とらえ方に反対なのである。かといって彼は決して民族主義的偏見に

 

  毒されているということもない。一つの見識というべきであろう。

 

 では、どうして古典科学はただちに近代科学へと成長しなかったのであろうか? なぜそれは地理的には議論の余地なく西欧で、しかもルネサンス以降、とりわけ十七世紀に生まれたのであろうか? どうしてアルキメデスニュートンによって初めて全面的に乗り越えられたのであろうか?

 

(科学論入門:佐々木力著)