アメリカのすばらしいところ

 

今日電話してネ。今日だよ

  昼食はいつも、研究所の別棟の1階にある小さなカフェテリアに行く。ここのサラダバーは世界で一番うまい。サラダバーといっでも、ネタは20種類ほどあって、

 日本と違うのは、チャーハン、焼きそば、スパゲティー、すき焼きなどもメニューに入っていることだ。発泡スチロ-ルの箱に適当に詰めて、ひまわりの種とベーコンもどきの粉末(これが結構ウマイ)をかけて一丁上がり。レジの所にもっていくとそこに秤がおいてある、この秤の上にのせると、1ポンド当たり3ドル20セントの計算でロ列えば今日は、「ハイ、4ドルフセント」となるのである。どんなネタを詰めてもいい。とにかくトータルの重さで値段が決まるのだ。

 このカフェテリアは、アジア系の顔をした50代後半のおじさんが経営している。美しい奥さん(アジア系)がレジ係で、いつも二コニコしている。おじさんのほうが必ず、「お元気ですか?」、と英語で声をかけてくる。経営者のおじさんは、昼の忙しいときだけレジの所にいて、奥さんに負けず劣らず二コニコしている

 この二コニコおじさんに2回目に会ったとき、「国はどこ?中国、日本、‥‥‥」と英語で話しかけてきた。「日本」と答えると、突然、日本語(正調ではないけど)で話しかけてきた。「いつきたの?」、「仕事は何をしてるのワ」、「こちらはどうですか?」。それ以来、カフェテリアに行くとき、この人たちの笑顔を見るのが楽しみになっている。わずか2回会っただけで、全く知らない人が友達になってしまうのが、アメリカのすばらしいところである。

 カフェテリアに通いはじめて1ヵ月ほどたったとき、二コニコおじさんが、少し興奮気味に話しかけてきたコこのビルにいる日本人にあなたのことを話したんだよ。そうしたら、是非会いたいってネ。ここにメモがあるから電話してネ。この人は、明日から休暇をとって2週間お休みだといってたから、今日電話してネ。今日だよ」つで〕鵈話するよう3回も念を押し、レジの隅にビニールテープでとめてあったメモを私にくれた。見ると名前と電話番号が書いてある。

 単なる客と食堂のおじさんの関係。そのおじさんの所に客として食べにくる月1の日系アメリカ人。それだけの細い細いつながりの相手に電話するのが何となくためらわれた。しかし、仁義である。エイヤと思って電話した。そういうキッカケでお会いしたのがフレッド・ヤマダさんであった。フレッドは、小柄でやさしい顔つきの人だ。顔は完全に日本人だが、手の動きやしぐさ、振る舞いは完全なアメリカンである。ボクは国立美術館の日本語説明員

  研究所のフレッドのオフィスを訪れた。衝立で仕切られた8畳ほどのスペースがフレッドのオフィスで、所狭しと3台のコンピュータが稼働している。机の上は1 5 cmほどの高さに書類が4ヵ所ほど積んであって、「チョット乱雑だけど、このオフィスではボクのスペースが一番広いんだ」、と言って話し始めた。

 「ボクはネ、カリフォルニアのサンアナという所で生まれたんだ。日系2世なんだヨ。子供のころに母親が亡くなってネ。シスタ一(妹)と一緒に仙台で育つたんだ。小学校と中学校は仙台の学校を出たんだヨ。アメリカに戻ってきてもう30年になるヨ。アメリカ軍人としてドイツに2年問駐留していたこともあるんだヨ」

 「ここでどんなお仕事をなさっているんですか?」、と 。

 「ボクはネ、統計学やコンピュータが専鬥なんだ、だから3つもコンピュータがあってネ。このコンピュータは、前は日本語表示もできたんだけど、このごろ英語しか表示できなくなっもやってネ。2~3人の日本人に聞いたんだが、まだ解決してないヨ」。フレッドはNIHのコンピュータ技術研究所の研究者である。

 [息子は2人いるんだけど、]大は角永さん*のお子さんと日本人学校で一緒だったネ 角永さんと一緒に日本人学校の役員をやったりしたヨ。今でも、NIHの代表として日本人学校の役員をしてるんだコ](*角永武夫:NIHに長年滞在した後、大阪大学医学部教授。若くして癌で逝去)

 [息子は日本語を倡うのを嫌かってネ。友達もいうんだ。『『ヨ本で生活していくわけでもないのに日本語を教えることはない』つでネ]

 「ワイフも日系2世でネ。日本語もしゃべれるし、スペイン語もしゃべれるんだヨ。ペルー生まれだからネ。ボクは明日から2週間カリフォルニアに休暇で行くんだけど、ワイフは9月にイスラエルへ行くからといって、ボク1人なんだヨ。アッハッハ。ボクはスポーツ観戦が好きで、力Uフォルニアの友達と、すでにあちこち見に行く計画を立てているんだ」

 「ところで、あなたは絵が好き?」

 「ボクは国立美術館(National Gallery o↑Art)の日本語説明員を、もう9年もやっているんだヨ[写真9-]3)。ボランティアだけどネ」、と言って美術館のパンフレット(日本語版)をくれた。その日本語版の終わりに「フレッド山田訳」と書いてある。

 「ワシントン[⊃。C。にはたくさんの美術館があるけれど、日本語で美術の説明ができるのは長いことボクだけだったんだヨ。だから日本から偉い人が来ると、美術館から電話がかかってきて、何とか都合をつけて来てくださいと言われるんだ。この間は、前・駐米日本大使と日本の外務大臣の奥さん一行5~6人がおいでになるというので、日曜日だったけど説明に行ったヨ。普通は第3・第4木曜にやってるんだ。興味があったら來てくださいヨ。特に、レオナルドダビンテとか印象派が好きなんだ。もっとも日本語説明員がボク1人じゃ足りないので、この間、初めて募集したヨ。かなりの人が応募してきた。説明腮になるのはとても難しいんだ。4回も試験があってネ、絵の前で説明する試験もあるんだヨ。今やっと見習いクラスの人が、女性だけど、育ってきたんだヨ。ボクもいつまでやれるかわからないからネ」

 「韓国語も習っているんだ。なかなかうまくならないネ。カフェテリアのおじさんは韓国人なんだヨ。そう言えば、韓国食品店に行ったときのことだけど、ボクはうっかりクルマのライトをつけたままお店には入ってしまったんだ。お店から出てきたら、「あー、あんなのだったのか」というんだ。「お店の前に止めてある×××のクルマのうイトがついたままです」、と何度も何度も店内放送したと言うんだヨ。韓国語でネ。ボクは韓国語がわからなかった。韓国の人とつき合うには韓国語でなくてはと思ってネ。それ以来、韓国語も勉強しているんだ」

 「あーもう帰る?そう。またいつでも来てネ。近いからネ。買い物に困ったら言ってネ。クルマで連れてっであげるからネ」

 「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」

大学院からこっちに来ないとダメだ

  「ロックビル・ハクラク」と答えた。

  昨日、秘書に電話の取り方を教わったばかりだ。

 「ドクター・ハクラクの番号は40番だよ。40番のところが点滅しているときは、ドクター・ハクラクがとってください」、と黒人の太った秘書が、不肖・ハクうクに教えてくれた。

 電話の相手は、塩井純一(しおいじゅんいち)たった(写真9-14)。名古屋大学大学院時代に、最もよく遊んだ仲だった。現在、ニューヨークのマウント・サイナイ大学医学系の研究員である。

 塩井には一人娘がいる。そのお嬢さんは、小学校6年生のときにアメリカに來たから、もう21才 ウィスコンシン大学マジソン校で数学を専攻しているそうだ。この10月から∠L年生だという、

 「娘を大学院にやるのかって?ボクも家内もすすめないんだ。研究者になるほど才能があるわけじゃない。日本でも、小学校のころだけど、勉強はできるほうじゃなかったんだ。でもアメリカに來たら、他の教科はほとんどだめだけど、数学だけはよかったんだよ。アメリカの小学校の数学はレベルが低いからね。アメリカの学校はできの悪い教科はほっといて、できのいいところをほめて伸ばすから、娘はおだてに乗って、それでたまたま数学のできがよかっただけで、才能があるというわけじゃないんだよ。アメリカでは本当にできのいい奴は別だけど、そこそこなら研究者は大変だよ。だから、大学院にいくことはすすめないんだ」


 「昨年、娘が20歳になっだのを機会に日本に3ヵ月やったんだ。こちらでは夏休みが長いからね。そしたら]呵か日本づいちゃって、ボクは好きじゃないんだけど、ウィスコンシン大学でも日本人の友達が増えもやってね」


 「家内?まあフィズィカル(身体的)には元気だけど、メンタル(精神的)にはそうでもないネ。以前は日本に帰りたいと強く言ってたこともあるけど、今は笆わないネ。家内は1985年に來たから、かれこれ10年になるな」


 [ボクはアメリカでやっていくと覚悟して研究しているわけじゃないので、日本に帰るかもしれないし、帰らないかもしれないネ。アメリカとか日本とかいっでも、それぞれ良し悪しだよ。そうね、グリーンカードは取っだけど、アメリカ国籍を取る気はないんだ 「赧初にアメリカに来たときは33歳だったけど、今から思うともっと早くくるべきだったな、結局出遅れた分、こっもの人に負けてしまうんだ。そうね、大学院からこっちに来ないとダメだな。なに、ハクラクはアメリカに生まれたかったって?ボクはそこよでは思わないネ。日本人として生まれたことはいいことだと思っているよ」