何でも翻訳できるわけではない

 自然科学の教授があるとき、このごろの学生は外国文献が読めなくなって困っている、語学の責任だけとは言わないが、語学はもっとしっかりしてくれなくてはいけないと、当の語学の教師の前でのべたことがある。いまの学生に語学力があるとは言わないが、できないのは外国語だけではなく、日本語であり、当該学科そのものなのではないか。内容がからきしわかっていなくて、外国文献の読めるわけがない。日本語がろくに読めないで外国語のわかるはずがない。何でも言葉のせいにすればよいと思っていられる科学者は幸いなるかなである。そういう連中がいま大学の語学教室を会話学校のようにしようとしている。結構なことだ。

 外国語はそう筒単に割り切れるものではない。ひとつの言語のきわめて多くの部分は慣用表現、つまりイディオムをなしていて、そっくりそのまま別の言語で置き変えることが困難である。だからこそ翻訳によらずに原語で理解する必要も生じるのである。「であろう」だけが英語にならないのではなく、自分の書いた英文だってやすやすとは日本語になってくれないではないか。

 イディオムは感覚がからまっているから翻訳困難であるのは容易にわかるが、もっと知的な要素の高いものでも案外うまく訳出できないことはそれほど自覚されていない。たとえば、外国語の論理もとらえにくい。ぴったりした翻訳がむずかしい。アントラソスレータブル(翻訳拒否的)なのである。同様、こちらの論理も外国語になりにくく、やはりアントラソスレータブル。互いに変換できないから別々の論理をもっているわけだが外国語の優秀性を信じる社会では論理の多様性などを承認するはずがない。わが国も翻訳文化の社会で後進コンプレックスをもっているから、日本語には論理がない、などということを大きな声で叫んでも気が変になったと言われる心配はないのである。日本語は非論理的だと言うくらいなら、日本語は翻訳拒否的だといと言うほうがどれだけ正直か知れない。何でも翻訳できる、トランスレータブルであるように思いこむ錯覚は、語学の入門期に、ブック、本、ペーパー、紙というような対応を教えられた後遺症であろう。こういう単語にしてもトランスレータブルなのは見せかけのもので、ブックと本は完全な相互交換性をもっているわけではない。本のどこをさがしてもブックにある帳簿とか切符といった意味は見当たらない。