世界最初のX線写真はレントゲンの妻の手

一八九五年一一月八日、すっかり陽が暮れた研究室で、クルックス管という真空管の研究をしていたドイツの物理学教授ヴィルヘルム・コンラート・レントゲソは、明りを付げるのも忘れて実験に没頭していた。

 そのとき、奇妙なことがおこった。クルックス管に電流を流すと、近くにあったシアン化第一白金のバリウム塩を塗ったボール紙が、暗がりのなかでボーッと光るのだ。電流を切ると暗くなる。通電すると、またボール紙はボーッと光る。どういう現象がおきているのかよくわからないが、どうやらクルックス管から出る放射線によるものらしい。レントゲン教授は、この不可解放射線を、とりあえず。X線と呼ぶことにした。

 かれはあれこれと実験装置を工夫し、木箱のなかにクルックス管と写真感光板をセットすると、妻に手を入れさせて撮影した。その結果が、手の骨と指輪だけが写っている、例の世界最初のX線写真である。これは医学の領域で役に立つ、と思ったかれは、さっそくヴュルツブルク物理医学会の会長に知らせにいった。一一月二八日のことである。この瞬間、X線撮影装置はME(メディカル・エレクトロニクス)のトップ・バッターとなり、骨折診断の機器として、あっという間にヨーロッパ全土に広がってゆく。

 しかし、その後、世の中の技術は急速に進歩したものの、レントゲン写真はいっこうに変化する兆しがなかった。

 それからほぼ一世紀、写真技術は発達し、医療技術は充実していったが、世間にはやっかいな問題がおきていた。X線写真の感光フィルムには銀がたっぷり使用されているのだが、その銀が世界的に不足しぱじめたのだ。

 現像液中に流れ出したものは回収して再利用できるが、銀膜そのもののようなX線写真は、病院の資料室にしまいこまれる。このままでは、銀はますます不足する。頭をかかえたのは、いうまでもなく写真フィルムのメーカーだった。

 「おい、何か新しいシステムを考えろ」。富士写真フイルム足柄研究所の所長が、宮原と加藤にそういったのは、一九七四年のことである。三十二歳の宮原は、日本硝子でウラニウ
ムの研究をしていたが、まったくちがり分野の仕事がしたいと富士写真フイルムに中途入社し、三十歳の加藤はアメリカ留学から帰ったばかりで、「あれ、おれの仕事がねえよ」とぶつぶついっているところだった。

 「三年やってもダメならやめよう」。二人はさっそく具体案の検討にとりかかった。こうして診断機器の分野ではレントゲン写真に次ぐ世界的な発明となるCR(コンピューテッド・ラジオグラフィー)の開発は、第一歩を踏みだしてゆく。

  一般のレントゲン写真撮影は、影絵と日光写真を組み合わせたようなものである。まず、誰でも知っているあの箱型の装置のなかに、フィルムを入れたカセッテという板状のケースをセットする。それから装置の前に立つと「はい、息を吸いこんで、そのまま止めて」で、後ろの装置からX線が放射され、人体を透過してゆく。骨のような硬部組織や筋肉と脂肪のような軟部組織ではX線の透過率がちがうので、その濃淡の差が影絵のようにフィルム面で像を結ぶ。

 ただし、これだげでは映像にならない。カセッテの内側は、両側に蛍光スクリーンという白いビニール・シートのようなものが張ってあり、フィルムはそのあいだに密着したサンドイッチの状態で入っている。人体を透過したX線は、まずこの蛍光スクリーンに吸収される。するとスクリーンは、ちょうどレントゲン教授が見た暗がりのボール紙のように蛍光を発し、密着した状態のフィルムは、それによって日光写真のように感光する。これが基本的な撮影の原理で、あとは現像処理を経てレントゲン写真の完成となる。

 宮原、加藤が着手した研究は、まず蛍光スクリーンと写真フィルムを使うアナログ式のラジオグラフィー(放射線写真術)の発想を根本的に変え、ディジタル化することだった。

 もちろん、似たような発想はそれまでにもあるし、CTスキャナーやMRI(磁気共鳴イメージング)など、コンピュータ処理による各種の画像診断機器も開発された。にもかかわらず、レントゲン写真の画像だけは、いつまでもディジタル化されなかった。それというのも、医師はレントゲン写真の微妙な濃淡の差からさまざまな情報を読み取り、腫瘍などの疾患を発見するのだが、そのアナログ画像のもつ膨大な情報量を、ディジタルに置き換える媒体がなかったのだ。したがって、これまでのレソトゲソーシステムの発展は、そのほとんどが写真フィルムの感度を上げたり、蛍光スクリーンを希土類にしたりという、″改良”によるものだった。つまりシステムそのものの変化はなかったのである。

 二人がまず考えたのは、そのシステムをまったく変え、アナログ画像をディジタルの信号に変換するための、写真フィルムに代わる媒体をつくることだった。