研究に全てを捧げた不肖ハクラク

 

  22歳で大学院に入学して以来、約25年間、 、すべての時間をバイオ研究に費やしてきた。働き盛りの人生を全部研究に捧げてきた。1日24時間しかないが、できるだけ長時間研究に打ち込めるように、生活、感情、考え方をコントロールしてきた。時間だけでなく、体力、知力、エネルギー、お金、趣味、意識、つまり自分のすべてを研究に投入してきた。研究のジャマだと思ったから、22歳で下宿住まいをして以来、テレビは買わなかったし、新聞もとらなかった。趣味もやめたし、研究者以外の人づき合いもやめてしまった。

 大学院生のとき、25歳で結婚したけど、研究に専念していたかったから、世間で行なう結婚式や披露宴はしなかった。実験が一段落するまでの3ヵ月ほどは、結婚したばかりの新妻と一緒に住んでいなかった。結婚する前から、筋肉研究者の江橋節郎教授(東京大学医学部薬理学)の人生観に感銘を受けていてたT橋先生と同じように、研究のジャマだと思ったから子供をつくらなかった。新妻と一緒に住み始めても家事のすべては家内に任せた。かわりに、三食すべて外食し研究で遅く帰ってくるに構わず、家内に寝るように指示をした。

 29歳で筑波大学の講師になり、給料をもらえるようになった。大学の研究費が十分ではなかったので、ボーナスの2割は研究費にあてた。講演料、原稿料も全部研究費にあてた。22歳で大学院に入学し、以来25年間、土曜日はもちろん(数年前までは、日本社会全体が土曜日は半日勤務たった)、日祝日も、大晦日も、元旦も、たいてい研究室に行った。

 35歳で、自分の独立した研究室をもつようになると、学生・院生は朝9時ごろ来て(来させた)、夜9時ごろまで実験していた。その間、しょっちゅう学生・院生が実験の指示をあおぎに来る。それでは、自分の勉強する時間がない。というわけで、早朝型に切り換えた。朝6時に研究室に行き、学生・院生がやってくる朝9時までの早朝3時間が、 の勉強時間になった。冬の朝は寒く、朝の6時はまだ諂い。しかし、これを長いこと続けた。もっとも、夜9時~10時には寝てしまった。

 そして家内を実験室に連れてきて、実験の試薬づくりから、簡単な測定をしてもらった。論文のタイプ打ちもしてもらった。院生がたくさん来るようになってからは、事務処理とパソコン作業をほとんど任せた。私設秘書である。おかげで、不肖・ハクラク、自分でパソコンを打たなくなった。海外にも家内を連れていき、海外滞在中の雑用は家内に全部やってもらった。

 こうやって、約25年問、家内と2人、すべてをなげうって粉骨砕身頑張ってきたものの、結局、 、大学院に入学した22歳の春に夢見たほどの偉い研究者にはなれなかった。国内のシンポジウムを何度も主催しだけど、科研費の班長も務めたけど、本も何冊か書いたけど、特許もいくつか申請したけど、国際学会の招待講演者としてアメリカやドイツに招かれたけど、日本のテレビ番組にも出演したけど、新聞にも何回か載っだけど、被引用回数の高い論文を発表しているけど川すど、けど、結局、大科学者にはなれなかった。

 母方の叔父は、干葉県内に養豚王国を一代で築いた人である。その叔父に、不肖・ハクラク、子供のころから可愛がられていた。叔父は少年時代の不肖・ハクラクに向かって、「一番になれコ呵でもいいから一番、世界で一番になれ」とよくいっていた。大学の学部を卒業するころになって、自分の今後の人生を考えたコ可も自信がなくて、不安ばかりの学部時代だったが、大学院に入学するに当たって決意したことは、「バイオ研究で世界一になることに、自分の人生のすべてを賭けてみよう」ということだった。

  “ナイン・トウ・ファイブ”またぱセブン・イレブン”

     の研究室に入ってくる卒研生や大学院生は、まじめである。頭もよさそうに見える。指導しだいでは、 よりはるかに伸びそうである。だから、学生一院生本人の将来を期待して、本人のためと思って、尻を叩いてきた。朝9時から夕方5貽まで研究する“ナイン・トウ・ファイブ”(そういうタイトルの映画があった)じゃだめで、朝フ畤から夜11畤まで研究する“セブン・イレブン’をめざせと。研究はオリンピックと同じで、君たち学生・院生ぱオリンピック候補選子”である。研究室ぱオリンピック候補選手強化合宿所”である。だから、金メダルが欲しければ、毎日ハードな練習が必要なんだ。

 「叱られることと怒られることは違うんだ。人間はたくさん叱られたほうが育つ。ボクらの時代は叱られて育った。ほめられると何か落着かなかった。ある先生は、「いまの学生はほめなければ育だないよ」というけど、ボクはなるべく叱るからね」といって、育つことを願って叱咤した。

 10を聞いて10を知るようじゃやっていけない。5を聞いて10を知るのが理想だ。このごろの院生は5を聞いて1ぐらいしか理解しようとしない。理解できないんじゃない、理解しようとしないんだ。言われたことを忘れるなら、すぐにメモを取りなさい。国立がんセンターの総長たった杉村隆さんはセミナーで講演した後の質疑のとき、メモを取っていたよ」

 「キットがあって説明書を読めば実験ができるというのは、院生としては毆低線のレベルだね。研究者というのは、そういうキットを開発したり、その根本原理を見つけることが要求されてるんだよ。ところが、最近は、キットに添付された説明書を読んで実験する、というレベルじゃなくて、キットを買っても、それを使いこなせない院生がいる。なんたることか」

 他にもいろいろ叱咤激励した。スポコン大学院物語をやっていた。

 そして、10年前までの大学院生には、そういう熱意が通じた気がしていた。もっとも大学院生のほうは、「ソコソコ育てばいいんです。そんな、日本で一番とか世界で一番とかの研究者じゃなくて、ソコソコでいいんです」、というのが平均的な反応だった。ところが、ここ5年くらい前から、そういう話をしても大学院生はシラケタ顔をするようになった。

 NIHの研究部長のケン(Kenneth M。 Yamada)のお宅のディナーに吁ばれたとき、ケンの研究室でかつて働いていた女性のテクニシャン、ドロシーが54歳でNIHを退職した話になった。彼女は3人兄弟であったが、彼女以外の2人の兄弟が50歳前後で病死した。だから早く退職しないと退職する前に自分ち死んでしまうと考えたらしい。「働きつづけて人生を終わってしまうのはイヤだ、退職して楽しい人生をエンジョイしたい」、とドロシーが言っでいたという。スーザン夫人は、「ほとんどのアメリカ人は、退職後の人生を楽しくエンジョイしています。ただ、研究者だけは別です。研究者は一生働きたい人種、一生研究していたい人種なんです]という。 部長のケンの年齢は50イ弋前半だけど、若いときから“研究、研究、研究”と研究一筋で生きてきた。今でも週70時間鐵き、セッセと論文を書き、世界各国を飛び回っている。研究のみの人生である。スーザン夫人の父親は大学教授であったそうだ。父親の世代は、つより30年ぐらい前までは、科学研究者を含め、人間の生き方としては、全人格的な生活が理想だったという。音楽を楽しみ、絵画を愛し、自然を考え、社会に貢献する時代だったという。仕事熱中人生は望ましい生活スタイルではなかったらしい。そして、また、今の20代・30代になると、人生のすべてを研究に打ち込むケンのようなタイプの研究者はすっと少ないという。

不肖ハクラク著より