西洋科学の思想的基礎解明の必要性

 

 

 近代日本が導入を図った「科学」は、西欧近代科学、しかも第二の科学革命を十九世紀後半の、専門化され、技術に応用を見いだしていた科学であった。わが国は、世界史的に見て、稀々ほどに、短期間で急速な政体の革命を成しとげ、文化的スタイルの変革を遂行しなければならながった。その文化的変革の一環として、どうして伝統的科学には満足しえず、そういった西欧近代科学を受容せねばならながったのであろうか?

 

 一九六〇年代後半から西欧近代科学に対して批判的な思潮が登場し、科学史・科学哲学の研究に専門的に従事する者からも、科学的営みを無批判的に信奉子る人々に対し「科学主義」という非難の言葉が投げかけられた。それはかなりの程度、真実をうがっていた。人々がそれはども制度化された科学に無批判的に寄りかかっていた側面があったからである。反面、「科学主義」というレッテルでどのような内実を意味するかが批判的に厳密にとらえられていたとは必ずしも言えない。かつて西欧近代科学に対抗して。民族性をもつ科学”なるものがファナテ西欧近代科学の特性と発展・・・

 

(科学論入門:佐々木力著)

 

 

ドイツ科学、日本科学

 

・・・イックに喧伝されたことがあった。ほかならぬナチス時代のドイツにおいてである。「ドイツ

科学」がその時の合い言葉であった(その全体像についてはべンヨジアンヌーオルフ‥ナータン編『第三帝国下の科学Iナチズムの犠牲者か、加担者か』一九九三年、を参照)。「ドイツ科学」に対して、「ユダヤ科学」あるいは国籍をもたない「国際的科学」が糾弾の対象になった。ぶ曹はドイツにのみあったと考えるのは早計である。日本でも、かつての戦争時に「日本科学」が叫ばれた時代があった。その全容の解明がなされないうちに、「日本科学」を新しい装いで再興しようとするさまざまな動きが現に起こりつつある。要するに、性急に無批判的に西欧近代科学の思想的基礎を「科学主義」といったレッテル張りで指弾するのではなく、その内実を理解することが先決なのである。

 

 明治の日本人はなぜ、漱石のように「西洋人が強い」、あるいは、それを言いかえて「西洋科学は強い」、と感じたのであろうか? そう思いこんだのは単純な虚妄ではなかったはずである。さまざまな科学の概念の中でも第二の科学革命以降、歴史の舞台に登場した「科学」、そしてそれに基づく「科学的テクノロジー」は格別の肉太の線を描いている。その意味で、多種のゲームの中では、やはり特別の地位をもっていることを認めざるをえない。本章では、西欧近代科学、とくに十九世紀以降のそれの強力さの秘密を科学史的子順で解明しよう。

 

(科学論入門:佐々木力著)