前近代的技術から「科学に基づくテクノロジー」へ

 

 

 私たちは、幕末・明治維新期の日本が受け入れた「科学」が、西欧でいかなる前歴をもつ知的営みであったのかを見た。しかし、その時期の日本人を驚嘆させたのは、第二の科学革命と第二の産業革命を遂行中の実験諸科学に基づいた技術であった。それでは、そういった科学的テクノロジーは前近代のアジアの技術、あるいは科学的テクノロジーが出現する以前の西洋技術とどういう点て異なっているのだろうか?

 

 技術はそもそも、科学と違って、ものを現実に制作する営みである。したがって、現実の社会に与えるインパクトは直接的であり、強烈である。しばしば科学と関連づけて理解される技術の特性をそのさますまな形態を記述しながら解き明かし、近代テクノロジーの特殊性を浮き彫りにしなければならない。この問いに答える試みの延長上に、さらに近代技術をどのように理解するかについてのいくつかの思想を紹介することにする。ここでの考察はあとで今日の科学技術をめぐる諸問題に取り組む際に役立つはずである。

 

 日本が一八六〇年代に全面的に近代化しようと志す以前の技術は世界のほとんどの地域で行われていたのと大同小異の技術であった。すなわち近代科学を応用しない技術であり、そして、前近代日本の技術の中心的部分は中国なり朝鮮からの借り物であった。このことを理解するためには、古代の渡来人がなにより技術文化の伝達者であったことを思い起こせばよい。前近代の日本の技術は、中国・朝鮮の技術のロロラリー的(周辺的)形態であったと言っても過言ではないのである。もっとも、このことは決して過去の日本人が技術において独創性を発揮しえなかったことを意味するわけではない。この指摘は、あくまで技術文化の根幹部分のみにかかわるということに留意していただきたい。

 

 ここで私たちの議論が拡散してしまわないために問題を限定して、中国とヨーロッパの技術を大局的に比較する問題を設定してみたい。それぞれの技術の高度さが同程度になり、また交差して、ヨーロッパが凌駕するようになるのは、ガリレオやベイコンが生きていた十七世紀前半と考えられている。この時代は、マッテオーリッチらが西洋科学の最初の果実(ただし数学と天文学といった古典科学)を中国にもたらした時代でもあった。議論の子がかりとして、この時代の二つの技術思想に関連する文献を紹介することにしよう。一つはフランシス・ペイコンの

 

 『ノヴムーオルガヌム』であり、もう一つは宋應星の撰述になる『天工開物』である。

 

 ペイコンは『ノヴムーオルガヌム』第一巻において、古代人には未知で、その起源について、新しいものであることは分かっていても詳細は不明であるとする、三つの発見に言及している。すなわち、印刷術と火薬と航海用磁針(羅針盤)である。これらの発見に関してベイコンはこう註釈している。「これら三者は、世界の事物の様相と状態とを一変した。すなわち、第一のものは、文筆的なことがらにおいて、第二は戦争関係のことで、第三は航海に関することにおいてであり、そこから、数限りない事物の変化が続いた。したがって、そうした機械的発明が及ぼしたのに比べてみれば、なにか帝国とか宗派とか星座とかが、人間的なことがらに対してより大きな効果および影響のごときを及ぼしたとは見えないほどである」。この著書が刊行された当時、ペイコンは英国の犬法官という、今日の首相にあたる地位に就いていた。この地位の高みから彼は、以上の三大発明に倣った機械的発明を鼓舞し、さらにその基礎をなすべき科学の振興をもうたいあげていたのである。ちなみに、書物のタイトルの「ノヴムーオルガヌム」とは、「新機関」、すなわち、アリストテレスの「オルガノン」=「機関」(論理学)に代わりうる新しい思考の道具、批判的帰納法のことを意味する。

 

 他方、「すぐれた自然力の恵みによって利用価値ある物を作り出す人間の技術」といったほどの意味をタイトルに盛った、宋應星の『天工開物』は、ベイコンがこれまでの人類史に与えたインパクトが甚大であると考えた三人発明のうち、火薬と羅針盤についてはそれなりの紙幅を割いているものの、印刷術については、その発明をうながした最大の要因である製紙技法に関する章でわずかに言及しているだけである。この書物は中国の伝統技術の集大成として編まれた。著者の末座星は自著の序の末尾部分でこう書いている。「この書は立身出世には少しもかかわりがない」。ペイコンの野心的な大著作計画である「大革新」『フヅムーオルガヌム』はその第二部である)の技術振胆(を謳った雄大な序言と比較する時、なにかしら悲哀の念を起こさせてしまう締めくくりと言わねばならない。

 

 ペイコンのいう三大発明は、『天工開物』が示唆していたように、実は中国起源であった。中国科学技術史の研究がニーダムらの子によって本格的に推進されるにつれ、西洋でルネサンスと呼ばれる十五世紀を中心とする時代までは、中国は技術に関しては西洋に比べて遜色なかったことが明らかにされた。否、ベイコンのあげている三大発明が雄弁に物語っているように、中国のほうが卓越した技術力をもっていたとさえ言いうるほどであった。

 

 * 木版を中心と寸る印刷術が中国でどう発展し、どのように西洋に伝達され、グーテンベルクの金属活す印刷術を生み出したかについては、トーマス・F・カーターが詳細を明らかにしている(『中国の印刷術』初版一九二五年、L・C・グドリッ子改訂第一一版一九五五年)。また、火薬と羅針盤の発明については、ニーダムが信頼のおける調査を行っている(『東と西の学者と工匠』)。

 

  「技術」という日本語は中国から輸入された術語である。それは早くも司馬遷の撰になる『史記』の「貨殖列伝」に登場している。「技」すなわち「てわざ」と、「術」すなわち「道筋」ないし「子段」という二つの漢すの組み合わせで作られた、西暦紀元前一世紀以前には存在していた古い言葉であり、きわめて広く、一定の手段を用いて物を制作する道筋を表す語彙ということができる。『天工問物』の若者が人間が生息するために杢用欠であるとした農業技術から、奢侈装飾品である珠玉制作まで、中国の伝統社会は見事な技術を所有していたと考えてよいのである。

 

 西洋の古代・中吐も一定程度の技術を育成していた。ギリシヤ語で技術はテクネーと呼ばれたが、この言葉はきわめて広い意味に用いられた。アリストテレスの『二コマコス倫理学』によれば、「生成にかかわり」、「あるものをどのように作り出せるがを考究するのが技術のはたらき」なのである(に合已。同語反復になるが、技術のないもの(「無術」)とか、でたらめなものの反対概念ならどんなものでもテクネーといわれたと考えてよい。建築術がテクネーの典型なら、前述(第二章且のディアレクティケー(弁証法)も正式には「ディアレクティケーニアクネー」であり、医学も「イアトリケー・テクネー」、すなわち「医療の術」であったのである。

 

 ラテン語のアルスは、テクネーとほぼ同義であるが、これまた広義の概念であった。「機械的技芸」がアルスなら、それと対照的な「自山学芸」もアルスの一種に数えられていたことを想起しさえすればよい。

 

 つまり、中国文化圏の技術も、西洋十口代・中世のテクネーやアルスも、それにかかわる人の技量に依存したがなり広い意味をもつ概念だったことになる。そもそも人間を他の動物から区別する徴表は、コミュニケイションの普遍的子段である抽象的言語をもっているほかに、もう一つ「道具を作る道具」を作りえることであると言われる。この判断規準に照らし合わせてみれば、技術は人間自体とほとんど同時に生まれたと言っても言い過ぎではないほど人間存在にとって本質的であることが分かる。 ところで、科学を利用する以前の前近代的技術を総称して、「フォークこアクノロジー」と呼ぶことがある。あえて邦訳すれば、「民俗技術」となるであろう。共同体文化と密接に連関し、それに縛られた制作技法をいう。フォークーアクノロジーを狭義に定義し、かなり原初的な共同体の技術に限定する場合があるが、ここでは最広義に前近代技術の意味にとっておくことにする。