西海岸のバイオマップ

 

  タマノイさんがアメリカ西海岸のバイオテク状況を話してくれた。「西海岸では、UCLAはバイオテクは実は少し弱いんです。企業としてはアムジェン(Amgene)社しかないんです。UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)には、カルビオケム(Calbiochem)社やキットをつくるので有名なストラットジン(Stratagene)社などいろいろあるんです、でもUCLAとUCSDがひとくくりのバイオテク研究文化圏をなしています。もう少し北のサンフランシスコにUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)とUCバークレイ、それにスタンフォード大学があって、バイオテク企業もいくつかあるんです。ここがまたひとつのバイオテク研究文化圏を形成しています。アメリカ西海岸は日本に近いから、日本のバイオテク企業はアメリカ西海岸を取りこむ政策を立てるべきでしょう。スタンフォード大学の新井賢一さん(東京大学医科学研究所教授兼任?)はスタンフォードから 日本に通勤しているといってますよ」。コー・ミタニ(三谷幸之介)゛‰

 

  日本から応募してUCLAの助教授に

    ミタニさんは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)生命科学系の助教授のポストに、日本から応募して、日本からいきなりアメリカに赴任した珍しいキャリアの人である。背が高く、ハンサムで二コニコしていて、どーしてこんな素敵な人が独身でいるのかと思うほどの人である。

 アメリカの大学助教授になりたてO年半経過)の悩みを伺った。

 「日本と違って,アメリカではいろいろなレベルで自己PRが重要だと感じています」

 「例えば、大学院生に自己PRをしなくてはならないのです。UCLAでは生命科学系全体でまとめて大学院生を入学させます。入学してくる院生の数は毎年約60名です。ところが教官は190人、つまり190の研究室があるんです。院生は毎年9月に入学して、1年目は研究室実習と講義を受け、2年目の9月に研究室に所属します。つより、1年目の秋冬舂の3つの学期に3つの研究室で研究室実習を行なってから所属研究室を決めることになります。従って、院生に自分の研究室に所属してもらうには、ます研究室実習にきてもらわなくてはなりません。研究室実習にこなければ、2年目の所属先に選ばれることはあり得ないんです。大学教官1年目の昨年は、研究室実習に誰もきてくれませんでした」

 「来るとすると何人ぐらい来るんですか?」

 [だいたい各学期あたり1人から2人です]

 「じゃ来てもらうのが大変ですね」

 「有名な先生のところには余るほど行くんですが,私みたいなカケだしは大変です。仕方ないので、近々、院生にEメールを出して直接誘おうと考えています。ここ]~2年のうちに2~3人の大学院生をとらないと、大学院教育の能力を疑われてテニユアの審査できつくなります。もっとも院生の方もいろいろと|青報を集めていて、あの先生のグラットはもうじき切れるからあの研究室に所属すると奨学金をもらえないとか、よく知ってます」

 「フーン」

野球とベースボールの違い以上だ

  「大学院生だけでなく、教授陣にも自己PRが必要なんです。例えば、私は大学の何かの委員会の委員を務めないかと打診されれば、ます断りません。ティーチングも積極的に行ないます。大学にいろいろ役立ってますということを教授陣に認めてもらうことが必要なんです]

  [研究費はどうなってるんですか?]

  「新任者のためのお金、スタートアップというのですが、これが大学から35万ドルもらえました。これは2年分です。もっとも、この35万ドルは大学からの借金みたいなもので、なるべく早く自分でグラントをとらなければならないんです。グランドをとれば間接経費が大学に入るわけで、そうやって借金を返していくという理屈です。今年は何とか2万ドルのシード・グラント(seed graは)をとれたんですが、シード・グラントの期間は1年だから、もっと長期のグラントをとらないといけないんです。今度、NIHのR29というグラントに申請しました。このところ、毎日毎日グラントを書いてます1

  現在、ポスドクや大学院生はいないけど、ミタニさんは3人のテクニシャンを使って。遺伝子治療の研究に張り切っている。若手のホープである。日本から誰かポスドクとして行くといい。ホームページとEメールのアドレスを書いておこう。ホームページのアドレスは、http://www。lifesci。ucla。edu/microimmun/Faculty/Mitani/mita冂i。htmlである。Eメールのアドレスは, mitani@凵cla。eduで、確か日本語も通じるといっていた。

 「日本とアメリカの研究システムは、野球とベースボールの違い以上だけど、少なくとも5年は必死にやるうと思っています。ただ、これからも私の研究室に大学院生が来なかったらと思うと、ゾッとします」、とあっしゃった。

以下の3人は、1995年にNIH(アメリカ東部)に滞在したときの取材である