文化人類学的科学

 さまざまな文化共同体、とりわけ分化をもつ歴史的文明以外の研究が進み、文化人類学と呼ばれる学問が成立した。その学問が発展するにつれて、ある種の文化共同体には固有の、数なり自然に関する秩序立った知識が存在することが明らかになった。

 

 このような発見を知らせる先駆的研究は早くも、一九〇三年に刊行されたエーミールーデュルケムと彼の甥マルセルーモースの「分類の若干の原初的形態について」(『社会学年報』第六巻)に現れ出ている。この論文で著者たちが注目したのは、分類という考え方である。彼らは、通常「未開人」と呼ばれている人々の間で行われている分類に関する思考がそれなりの高度な秩序をもっていることを見いだした。著者たちによれば、あるものを定義したり、演繹したり、帰納したりする方式とそれを身につける能力は、個人の中に先天的に与えられているものではない。そういった論理的思考は、共同体の特異な構造が複雑になるに連れて分節化してゆくものなのである。その意味で、「未開人」の分類思考は「文明人」のそれより劣っているわけではなく、独自の構造をもっていることが明らかにされたのである。デュルケムらは、しかし、分類思考以外の私たちが科学的思考と呼んでいるものと類似のことがらを研究対象にするまでは進まなかった。

 

 では、現代の文化人類学は科学をどうとらえているのだろうか? それについては、たとえば、フランスの構造人類学の唱道者クロードーレヴィトストロースの『野生の思考』二九六二年)から学ぶことができる。彼はその著の初めに「具体の科学」という章を置き、そこで、「未開人」の思考を一般的に論じた。その章の冒頭部分に引かれた事例が、最もよく「未開人」の思考パターンのあり方を教えてくれる。すなわち、ある部族では動植物の中で自分たちに有用なもの、有害なものにしか名前をつけす、ほかは子把一からげに呼ぶにすぎなかった。ほかのある部族では、研究者がある雑草をつんできて名前を尋ねたところ、その質問者の好奇心、あるいは「愚行」を笑った。ここから分かるのは、一定の関心ある対象に対する認識の解読格子(解釈の編み目)はきわめて構細に特異に秩序立った仕方で細分化し分節化をとげているが、そうでない場合の認識の格子はまったく存在しないか徂い、ということである。レヴィトストロースは、そういった思考が「近代科学の対象と同一レヅエルの事実に向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種である」という認識をもつにいたっている。

 

(科学論入門:佐々木力著)