悪文に対する対処法

中止法で書かれた文のほとんどは、より短い文に分解することができる。そして分解・独立させた文の方が、一般的に言って、理解しやすくなることは明白であろう。さて、中止法によって文を分解・独立させた場合、独立させられた文と、もとの文との関係をはっきりさせるために、枝番号をつけることが考えられる。

 中止法で書かれた文は、よほど文の構造が読者にわかりやすいように明示されていないと、いわゆる悪文を産出することが多くなる。ここでは、そのような悪文に対する対処法
を考えてみることにしよう。

 言うまでもなく、昔から多くの人が悪文には手を焼いてきた。まず、ここでは、『悪文』という書物において悪文の典型とされているものを引いてから、それに対する対処法を考えてみよう。

  * 岩淵悦太郎編著『第三版 悪文』、日本評論社、一九九二年。この本はたいへんな名著であり、文章に関心をもつ者にとっての必読書である。

 「エゴの位置するシテュエイションを破壊する為には、自殺まで辞さなかった潔癖さと、通俗性の中に埋没するのを辞さない時代への忠実さとが表裏をなして、それぞれの方向に解体していったところに大正の近代文学の運命があった。」(上掲書、一五頁)

この文が悪文とされる理由のいくつかは、『悪文』において見事に解明されている。「表裏をなして」という中止法の使用に、悪文となったかなり大きな原因があると考える。『悪文』の著者が言うように、「表裏をなして」はそこで一旦切れるのか、それとも副詞的に使われていて、「解体していった」に続いていくのかがはっきりしないのである。さらに、「解体していった」の主語が何であるかも不鮮明である。

 悪文を短文に分解することはきわめて困難である。書き干が本当に何事かを読者に真剣に伝えようとしているのかどうかが疑われる悪文については、お付き合いしないのがもっとも賢明な方法であろうが、実際問題としてはそうもいかない。その上うな場合には、悪文の悪文たる所以を明確に示すか、考えられるかぎりでの要素文を短文として取り出し、そして枝番号をつけたうえで、それらのありうる連結を示すはかないであろう。しかし、いずれにしても不毛な作業ではある。「悪文よ、消えてなくなれ」とつぶやかざるをえない。他方で、われわれ白身はみずから悪文を書くことのないように努めるべきである。そしてこれが、皮肉なことに「悪文に対する対処法」ということなのだろう。

『読み書きの技法』小河原誠著より