二十世紀の科学的テクノロジーとその技術論的問題

 

 

 二十世紀を象徴しえるような科学的テクノロジーの産物はなんだろうか? 航空機もその候補かもしれないが、科学技術史の観点から問題にすべきなのは、それよりもコンピューターであろう。計算機械の考えはパスカルライプニッツの時代からあったが、彼ら十七世紀の数学者が考案したものは手動だった。二す世紀になって、計算機の動力として電気を使う考えがでてきた。コンピューターの実現に寄与した最大の数学者はフォンーノイマンである(ハンガリー

出身で、アメリカで活躍した)。彼は数学の前線的理論を応用してコンピューターを設計し、プリンストンの高等学術研究所に実験的モデルを作製して、この計算機械を世に出すために慟いた。

 * それについてはハーマン・H・ゴールドスタインの『計算機の歴史Iバスカルからフォンーノイマンまで』二九七二年)に詳しい。ゴールドスタインは、フォンーノイマンプリンストンでの若き

 

  協力者であった。彼は数学史家でもあるので、私も会話した経験のある、まことにブリリアントな数学者である。

 

 科学的テクノロジーの技術論的問題は、このフォンーノイマンに現出している。彼は数学のまぎれもない天才であった。彼の数学における集中力こそが、フォンーノイマンをしてコンピューターを実用の域にまで到達させた最大の要因であった。そして、それに先立って原子爆弾製造の理論的難問を解いたのも、その同じ集中力だったのである。フォンーノイマンは数学においてだけではなく歴史的事実の記憶や語学力においても才能を発揮したが、倫理的・社会的痛みといったものはもたなかったらしく思われる・この点てヽサイバネティックスの創始者のバート・ウイーナーと好対照たった。フォン・ノイマンが分析型の才能の持ち主たったとすれば、ウィーナーは総合的思考もできた数学者たった。フォン・ノイマンは、それのみならず、倫理的・社会的な問題が存在することすら理解できなかったのではあるまいか? 彼が戦後プリンストンでコンピューター制作に夢中になるについては、原子爆弾の設計に数学者としてかかわった経験が大きくものをいったと言われる。原爆を作製するためには膨大な数値計算が必要とされ、計算機があれば、と考えるのがごく自然だったからである。

 

 フォンーノイマンは幼時から数学の才にすぐれ、そのため英才教育を家庭で受け、すでに十代で一流数学者としての名声を勝ちえた。当初は数学基礎論など純粋数学の分野で大きな成果をあげた。有名なゲーデル不完全性定理(第四章2参照)を最初に理解したのは、彼である。その彼も、一九四〇年代に入り軍事研究に手を染めると、自分が「より純粋ではなくなる」という自覚をもち始めていたようである(ウィリアムーアスプレイ『フォンーノイマンとコンピューターの起源』一九九〇年)。しかし、その「不純さ」の意識は、軍事研究の塲での「純粋」理論的な雰囲気と奇妙に相殺しあうものであった。換言すれば、「純粋」科学者であった人問が、-不純な」軍事技術開発の場にあって「純粋」科学研究と同様の環境で研究できるようになった。ロスアラモスでフォン・ノイマンといっしょに原爆研究に従事したスタニスラスーユーラム(ポ上フンドからの亡命数学者)は当時を回顧して書いている。「私はありありと覚えているが、口スアラモスに着いた時、私か驚嘆をもって見いだしたのは、はっきりと定まった実際的な計画について仕事している技術者ではなく、抽象的な推論を討論している数学者のグループを思わせる環境であった」(S・ユ土フムほか「フォン・ノイマン」一九六九年)。

 

 一般に、技術者にとって自らがかかわっている技術の全体的ヅイジョンを把握することは、その技術にまつわる倫理的・社会的コンテクストの理解のためにはもちろん、当該技術を成功裏に開発するためにもきわめて重要である。「全体的ヅイジョン」は「心眼」とも言いかえられる。科学的工学の教育を受けただけの技術者(その多くは大学工学部の出身者である)は、この「心眼」をもたない傾向性が強い(E・S・ファーガソン『技術屋の心眼』一九九三千)。

 

 十九世紀に本格的に歴史の舞台に躍りでた科学的テクノロジーは、なるほど従来の技術とは文す通り桁違いの水準の技術を可能にさせた。日常的レヅエルの試行錯誤的経験からは得られない、異なる次元での自然的世界の法則性を適用させることができるようになったからである。反面、科学的テクノロジーはそれが機能するコンテクストについて視野狭窄ともいうべき現象をも引き起こした。そういった小児のような狭い視野しかもたなかった、しかし、その視野の範囲内では数学的な深淵を洞察することができた科学者の典型がフォンーノイマンだったのである。私たちは、ここに現代科学技術の最初のディレンマに出会ったことになる。この種のディレンマにはふんだんに遭遇することとなろう。それゆえヽあとでの議論のために、技術者が当然もっべき「心眼」をもたず、社会的モラルを欠いた科学者が引き起こす問題を、フォンーノイマンにちなんで、試みに「フォンーノイマン問題」と名づけておこう。

 

(科学論入門:佐々木力著)