科学的テクノロジーの発展

 

 

 科学に基づく技術、すなわち科学的テクノロジーは本格的には十九世紀になって登場した。その代表例がさますまな電気技術である。電信・電話などの遠距離を結ぶ通信技術、電灯などの照明器具は電磁気学に基礎をおく電気エネルギーの安定的供給なしには考えられない。

 

 かといって、科学的テクノロジーのすべてが十九世紀以降に出現したと考えるとすれば、それは大きな誤りである。いかなる時代にも当時の科学を利用した技術が考案された可能性があることは、古代のアルキメデスの茶績を想起してみるだけでよい。アルキメデスの生涯についての情報を伝えるプルタルコスの『対比列伝』(別名の『英雄伝』で親しまれている)の中の「マルケルス伝」や、ウィトルウィウスの『建築書』が教えてくれるように、アルキメデスにはたしがに技術的関心、とりわけ軍事技術的関心があった。ただパラボロイド=放物線を回転するとできる)鏡制作のための単純な反射光学や、梃子や滑車を操作するための機械学や流体静力学の水準では、できることはごく限られたものでしかなかった。自然学や医学にしてもごく経験的な段階にとどまっていた。こういったことが、古典科学と技術との相関について言える限度であろう。

 

 ところがガリレオ以降、数学的自然学が形成され始めると事情は変わってくる。ガリレオは振り子時計を考案した。それは単振り子が振れ幅によらずほぼ一定の時間で揺れるという性質(振り子の等時性)を利用した時計であった。この考えはホイヘンスに受け継がれた。彼は単振り子では厳密な意味で等時的には揺れないことに気づき、振り子を吊す側板がある種の曲線である場合に等時的になることを当時の幾何学的知識を存分に用いて確かめた。その曲線とは、パスカルが数学的考察の対象としていたサイクロイド(円を転がす際に円上の一点が描く曲線)であった。そのような思考の軌跡を記録したのが、ホイヘンスの著書『振り子時計』二六七三年)である。それはアルキメデス的精神で書かれた近代科学的テクノロジーの生誕を告げるというべき傑作であった。ニーダムによれば、中国はガリレオが創り上げたような数学的自然学を想像だにしえながった。また、ホイヘンスの振り子時計によって中国の機械時計の精度は全面的に凌駕された。

 

 しかし、そのホイヘンスですら、当時の航海術が喉から子が出るほど欲していた海上経度を計測するための海洋クロノメーターを作製できながった。その理由の一つは、エレガントな数学の知識を駆使する数学者であった彼が、振り子時計へのこだわりを棄てることができながったからである。実際の使用に耐えうる海上クロノメーターを制作したのは数学者ではなく、冶全学に通じていたジョンー(リソンという技術者だった。彼はバネを鍛練することによって難問を解いたのであり、その発明は英国がはるか遠洋に出る技術的背景となった。数学によって技術的問題の一部を解決しえたホイヘンスの振り子時計のようなことは、いずれにしても、例外的できごとでしかなかった。これが十七、十八世紀の人々が最も欲しがっていたと言われる機械時計の制作技術について言えることである。

 

 フランス革命以後、科学的テクノロジーに従事する技術者が群をなして登場するようになった。す九世紀の熱学の分野での傑作の一つは、サティーカルノーの『火の動力、および、この動力を発生させるために適した機関についての考察』である。カルノーはこの小冊子の中で、英国の産業革命を推進した技術的基盤である蒸気機関を熱学的に分析し、熱源が蒸気力ではなく空気エンジンから得られるような機械の可能性について考察した。彼の考察は完成の域には達していなかったものの、他の学者の興味を刺激し、クラウジウスによる熱力学の集大成をうながすと同時に、空気エンジン制作の理論的基礎ともなった。今日のディーゼルーエンジン、ガソリン・ナンシンなどはまぎれもなくカルノーの科学の産物である。十九世紀の科学的テクノロジーの最大の所産の一つは熱機関だったのであり、それは船舶、鉄道、自動車などの交通子段に生かされた。

 

 十九世紀以降、化学は技術的に有用なものになり(その先駆けが、染色工業である)、さらに二 十世紀には分子生物学が技術に応用できる段階にまで達している(バイオテクノロジー)。

 

 東京大学は科学的テクノロジーを制度化させた世界で最初の大学であった(その工学部の前身は工部省工学寮で一八七一年発足)で西洋的伝統においても技術者の社会的地位が低かったわけでは必ずしもない。しかし、技術者が専門職業と見なされるのはエコルーポリテグニクの創設以降である。エコルーポリテクニク型の技師養成機関は世界中に波及したが、中世以来の伝統と格式を誇る大学は、容易に工学を自分たちの学問の牙城に入れようとはしながった。たとえば、ドイツでは「工業高等学校」(TH)として比較的低い地位にとどめおかれた。学位授与権が認められ、大学とほぼ同等の地位を獲得寸るのは一八九九年になってがらのことである。その点、近代日本は工学に対する。偏見”をもっていなかったのである。逆の観点から見ると、その程度にも日本の近代大学のレヅエルは低かったことになる。

 

 もともと技師、工学者は常人のわざを超えることをすることを期待されていた。エンジニアの語源は、才能、想像力を意味するラテン語の(イングニウム)である。常人にはできないことをやる特異な構想力、技を期待されていたわけである。それが科学的テクノロジーが出現するや、「イングニウム」の発現は驚異的段階にまで達するようになる。十九世紀後半になると一定程度、科学の素養をもつ技術発明家がめじろおしになる。トーマス・エディソンや二コラーテスラの名前がたちどころに浮かぶ。

 

(科学論入門:佐々木力著)