高度科学技術社会と科学技術のイデオロギー性

 

 

 十九世紀後半、竿二次産業革命が先進資本主義社会で遂行され、科学的テクノロジーが社会の中で重要な役割を果たすようになってのち匸咼度科学技術社会が到来した。蒸気機関、ディーゼル、ガソリンなどを利用した運輸子段、電気テクノロジーを使用した交信子段が日常化し、重化学工業が産み出した製品が一般の人々の消費意欲を刺激するようになった。第二次世界大戦後には、原子力エネルギーが注目を浴び、マイクロエレクトロニクスによるメディアの革命が起こり始めた。将来はバイオテクノロジーが農業・医療の分野に進出することが必須と考えられている。

 

 こういった科学的テクノロジーの社会への波及は、あるいは普遍的な歴史の趨勢と考えられるかもしれない。が、必ずしもそうとは言い切れないふしもある。フランス革命の理念が退潮したナポレオン時代、あるいは戦後のアメリカ社会で、なぜ科学者が政治的にもことのほか重要視されたかを省みれば、科学的テクノロジーが思想的に一定の傾向性をもった人間の業であることに気づき始めるはずである。科学や技術はそのままストレートに政治的イデオロギーのようなイデオロギーとは言えないかもしれない。が、一定の目的を助長する手段として機能しえ、また目的自身の策定を補助し、時に私たちの望みもしない生活環境を形成するという意味で、立派にイデオロギー機能を果たしうるのである。

 

 科学はそれが。純粋”であると見なされるようになればなるほど、そのイデオロギー機能には無自覚になるものらしい。十九世紀から今日まで発展してきた現代物理学に寄せる科学者の学問観とまで言ってよい熱い思いは、量子力学の形成に深くかかわったヴェルナー・(イゼンベルクの次の言葉が代弁してくれている。「素粒子プラトンの『ティマイオス』における正多面体と比べることができる。それは原始描像であり、物質の理念である。核酸は生物の理念である。この原始描像はすべての広いできごとを定める」。(イゼンベルクが物質の根源であると考える素粒子は、正多面体のように数学的に秩序立った描懽をもつのだという。ケプラーの『宇宙誌の神秘』二五九八年)と同様のプラトン主義的な数学的理念への憧憬がここには存在している。

 

 こういったプラトン主義的憧れをいだくハイゼンベルクは、古典科学をアルキメデスが、西欧近世科学をニュートンが代表していたとすれば、十九世紀以降の「科学の時代」を代表しうる数多い候補者の少なくとも一人であろう。その人が自らの心底に温めている審美眼とは、ヨーロッパ思想の原点をうがつような以上の言葉であったのである。この言説は二つのことを教えてくれている。ヨーロッパの学問思想の「観念」の強固さであり、そしてそういった「観念」を形づくる社会的基底を容易に忘却してしまうその思想の危うさとである。

 

 以上は、西欧近代科学の強さの秘密をその生成を通して見る試みであった。が、ここで話が終わったのでは、その強力さを真に発揮させる手段には部分的にしか触れずじまいになってしまう。

 

(科学論入門:佐々木力著)