近代科学のマキャヴェリスト的背景

 

 

 ニュートンが集大成したようなテクノロジー科学はたんに思想上の成果として学者たちの規範になっただけではなかった。それは政治的・社会的にも支持を獲得することができた。というより、政治的・社会的に同様のエートスがすでに生成され定着しつつあったために、支持を得ることができたのである。これは、近代科学の生成も、公理論的数学がギリシヤの民主主義的政体と連動して生成した歴史的経緯と類比的にとらえられうることを教えてくれている。

 このことをもっと立ち入って論じてみよう。テクノロジー科学は十七世紀に登場した近代国家の中に受容された。何かを作れたりするという意味で有用であったから受容されたのだろうか? 必ずしもそうではない。そう見るのは、狭隘な実用主義的短見である。テクノロジー科学はいわば“イデオロギー″として近代的政体に取りこまれたのである。

 

 近代政治哲学の伝統はイタリアのニッコローマキアヅエッリによって始められたと言われる彼の政治哲学は、政治の目的や理想をほとんど問題にしない。それは、与えられた状況下で君主がいがにして他の有力なライヴァルたちの詐術にかかって敗北することなく、人民にほどよく信頼され、すなわち恐れられすぎもせず、かといってあなどられもせず、統治できるかの技法について論ずる。『君主論』二五こ三年)は、君主の闘争子段として、法と力をあげているが、マキアヴェッリが主として考察の対象とするのは、力による統治である。彼によれば、君主は野獣性と人間性とを巧みに使い分け、ともかく勝利しなければならない。それゆえ、力の保持が重要である。「武装せる予言者は勝利し、武力なき予言者は破滅する」(第六章)のが政治の冷徹な法則である。このような政治技法は、マキアヴェツリを待たずとも、およそ政治が存在してからというもの現実に行われていたに違いない。けれども、彼は政治悪を現実に認容し、自分の名前で、一書をもって理論化をあえてした点で嚆矢をなすのである(レオーシュトラウスマキアヴェッリについての思想』一九五八年、序論)。

 

 マキアヅエッリは、政治におけるリアリストであった。彼の思想を英国で最初に評価した政治家の一人、ペイコンはその著『学問の進歩』二六〇五年)の中で書いている。

 

 「われわれはマキアヴェッリやその他の、人間はどんなことをするかを書いて、どんなことをすべきかは書かなかった人々に負うところが大きい」。マキアヴェッリは実際、人間の現実(ありのままの存在)について書き、理想(汐一FPあるべきこと)について書かない。古来、古代ギリシヤの理想主義(観念論)的哲学を創始したソクラテスも(したがって、彼の弟子プラトンアリストテレスも)、キリスト教の教祖になったイエスも、人間がいかに生きるべきかを説いていた。マキアヅエッリは人間がどのように現実に生きているかを凝視した。認識関心のレヴェルを一段下げて政治に取り組んでいるのである。

 

 エルンストーカッシーラー(『国家の神話』一九四六年)やレオーシュトラウス(「政治哲学とは何か」一九五九年)は、マキアヅエッリの政治哲学とガリレオに始まる機械論的な近代自然哲学の類似性を認めた。近代政治哲学も近代自然哲学も、ほとんどもっぱら「いかにして」(ゴミ)の問題―操作的・技術的問題―たけにかかわるからである。

 

 近代自然哲学は機械論的であると言われる。機械論的自然檬とは自然を機械として見る考えをいう。説明することが困難な生命的、有機的なことがらを可能な限り排除しようとするのである。抽象的言葉づかいでは、「自然は微粒子の位置運動からなる」と言いかえられる。デカルトは、す宙が微粒子の集成で、それらを統御しているのは数学的自然法則であると見る、機械論的す宙像の最初の提唱者となった。数学と自然学における彼の最重要概念は「分析」であ つた。十七世紀には最も精級な機械は機械時計であると考えられていたので、科学革命当時、自然は時計と類比的に見られた。しかし、十七世紀に自然総体を「死んだ」機械と等値した思想家はいなかったはずである。デカルトですら、「分析」して到達して得られた自然は機械であるに違いないと考えたが、その逆の道をたどって、「総合」して得られる自然像が機械であるとまではあえて主張しなかった。人間の肉体はまだしも、構神を機械とは見なかったのがその証である。自然は生きているに違いないが、とりあえず機械と見て、それにアプローチしようとするのが、テクノロジー科学の方法論的合意なのである。そうアプローチする方が、自然を理解しやすいからである。換言すれば、技術的に操作することが可能になるのである。その点て、テクノロジー科学はマキアヅエッリの政治哲学に実によく似ている。彼にとっては政治とは人民の統治の技術なのである。「いかにして」の技術なのである。

 

 * 数学では「解析」と言われる習わしであるが、語源は同じで、ギリシヤ語のアナリュシスである。

 

(科学論入門:佐々木力著)