民主主義とともに生まれた理論数学

 

 

 理論数学がいかなる経緯で古代ギリシヤで成立したのかの歴史理論はハンガリーの数学史家アルバッドーサボーによって提起された(「ユークリッド公理系の始原」一九六〇年、『ギリシヤ数学の始原』一九六九年)。彼は数学における厳密な論証とはいかなるものであるかを分析し、そういった論証法の規範と考えられてきた『原論』の公理系に着目する。さらに、ギリシヤの論証は、直観的なものから、説明的なもの、抽象的な間作証明と呼ばれる帰謬法へと段階的に発展していったであろうという推測を述べ、そして帰謬法こそ、古代ギリシヤ人が初めて発見し、使用した論証法であると主張する。帰謬法とはある命題の否定を前提し、そこから矛盾を導き出し、そうすることによって原命題の真理性を結論づける論法をいう。

 

 初めに原理的なことがらを置き、それらから厳密な演繹(論証)によって命題の真偽を検証してゆくような理論体系は公理論的体系と呼ばれる。ここでとくに問題となるのは、初めに議論

の出発点として据えられる「原理的なことがら」あるいは「始原」である。ギリシヤ語ではアルケー(複数がアルカイ)という。『原論』第一巻冒頭部に置かれている「定義」、「公準(要請)」、「公理(共通概念)」が、「原理」ないし「始原」である。定義は、たとえば「点とは部分のないものである」などで、語義を誤解のないように定める。問題は公準や公理である。公準は、たとえば、有名な平行線公準を含む。公理は「全体は部分よりも大きい」などからなる。

 

  「原理」は、通常考えられるように、自明に真なる言明なのだろうか? サボーは、そうでない、と答える。「原理」は単純に議論のための「始原」、すなわち「始まり」にすぎず、要求事項として、がりに「端緒」に置がれたものにすぎない。実際、平行線公準が真であるかどうかについては古くから議論があったし、「全体は部分よりも大きい」には、たとえばエレアのゼノンのように異論(づフドックス)を提起する人もいた。それでは「公準(要請)」(アイテーマ)とはなにか? その語が出来する動詞「要請する」(アイテオ士は、日本語でもそうであるように、「要求する」を意味した。では「公理」はどうか? 「公理」テクシオーマ)は、動詞アクシオオーに由来するが、その語にも「請求する、要求する」という意味があるのである。

 

 サボーは今度は、「公準」や「公理」という用語がある人々の間では「仮説」(ヒュポテシス)とほとんど同義に用いられていた事実を確認する。「ある人々」とは、ゼノンら対話的弁証法論者と呼ばれた一群の人たちのことである。「弁証法」尹イアレクティケ士とは批判的に容赦することなく議論を徹底して行う討論法のことをいう。対話的弁証法は『原論』がまとめられる以前から存在していたから、対話的弁証法論者たちこそが数学における公理論的体系の成立を剌激した、とサボーは言いたいのである。こういう観点から見ると、「原理」は議論のための

 

 「仮説」ギリシヤ語の「ヒュポテシス」は、前もって「下に置かれたもの」の意味)であるから、数学的体系は本来、絶対的真理というより、条件的真理の体系であるというように解釈されることになる。

 

 サボーが主張するのはここまでである。彼は、要するに、理論数学の起源を弁証法の成立にまで遡及させたことになるのである。ならば、もっと根源的になぜある時期のギリシヤで対話的弁証法が生まれ、普及したのであろうか?

 

 サボーの研究方法は厳密な文献学的手法であった。その方法によって彼は、数学と哲学を「内的に」結びつけた。私たちはここで科学の社会史、すなわち「外的」な研究方法を導入しよう。古代ギリシヤの社会史ないし政治史をひもとくと、ほかの文明共同体では起こらなかった重要な事件にであう。王制が解体し、最初に貴族階級が政権を担当し、次第に民衆政治(民生正義、デーモクラティア士が登場してくるのである。この古代の「永続革命」というべき事態を、たとえばフュステルードークランジュの名著『古代都市』二八六四年初版)の第四編「革命」は、第一次革命から第四次革命までの波状的過程として描いている。民主政治下のアテーナイについて著者はこう書いている。「政治はもはや前時代の組織のもとでのように伝統と信念とによることがらではなく、深く考えをめぐらして、道理を吟味しなければならなかった。 論議が必要であった」。真剣な議論の必要は王制の没落とともに生まれた。どんなことをも解決しうると見なされていた至高の権威が解休したからである。

 

 数学におけるアルケー(原理、始原)についての活発な議論は、政治におけるアルケー(第一人者たる地位、王権)の権威の危機とともに始まった。文化史と政治史をつなぐ枢要な概念を提供してくれるのは、巨匠ヤーコプーブルク(ルトの『ギリシャ文化史』二八九八-一九〇二年)である。その概念とは「スコーン」(競争)という考えである。ブルク(ルトは、王権が崩壊した

あとの「ギリシャの貴族制」について書いている。新たに歴史の主役となった貴族たちとともに「あの競技的制度、㈲等々者たちの間での競争が始まるのであるが、それはやがて無数の形を収りつつギリシャ人の行動と思考の全領域を貫くことになるのである」(第二章第二節5)。彼はまた、ディアレクティケーという思考法が神話的思考との訣別をうながし、その根底には思想家回士の「競争」が存在したと考えている(第八章第一而「神話との訣別し。これらのことは公理論的数学が成立する前か、あるいは相前後して起こった歴史的事件なのである。

 

 シャツトピエールーヅエルナンの『ギリシャ思想の起源』二九六二半)は、古代ギリシャで工権が危機に瀕するやなにが起こったのかを至極簡明に解説してくれている。「政治もまた一種のアゴーンの形をとる。それはすなわち公共の広場であり市場である前に、まず集会の場所であったアゴラを舞台として行われる弁論競争、議論による闘いである」。アゴーン(競争)とアゴラ(広場)はもともと互いに近しい間柄にある言葉であった。政治も数学も、アゴラでアゴーンの形式で行われたのである。「ブンオドスのいうごとく、子べての競争、エリスは平等の関係を前提とする。競争は平等な人々の問にしか成立しない。この社会生活をアゴーンとしてとらえる見方の中に見られる平等の精神は、ギリシヤの貴族的戦士階級の心性を彩る特徴の一つであり、それはまた権力の観念に新しい内容を付与することにも貢献した。アルケーはもはや何人の独占的所有物であってもならない」。エリスはほとんどアゴーンと同義で、競争、論争などを意味する。アルケーとは主権者、命令権などを意味する。数学用語としては、原理を意味する言葉である。ギリシヤ社会でいかにして平等が制度化され、アゴーンが日常化子ることによって批判的議論が展開されるようになったのがが心憎いほどの筆致で活写されている。このような精神的風土は裁判の形式にまで及ぶ。裁判官が「証人を求めるのは、もはや一方の当事者に味方して彼と一緒に誓いをたてることではなく、事実に関して陳述することである」。「客観的真理の観念」が醸成されたのである。

 

 ギリシヤ語に定冠詞があったことが抽象的概念形成に寄与した、とする説得力ある学説を提出したのはブルーノースネルであった(『精神の発見』第三版一九五五年)。定冠詞を伴った名詞は、動詞や形容詞と異なって、現実からの飛躍、抽象化をうながしたというのである。古代ギリシヤにおいて「客観的真理」は、理論の形で、抽象的で一般的な真理として確立されたのである。 以上のギリシヤ社会史‐思想史の記述は、いかに批判的討論が特異な政治的背景(王権の解体)の中で育まれたのか、そしてそういった雰囲気の中からディアレクティケー(弁証法、徹底的問答法)が形づくられ、ひいては論証を伴った理論数学、公理論的数学が誕生していった機微を明らかにしてくれている。高度な理論数学は、批判を許容する社会、民主主義的政体の産物であったのである。他方、こういったギリシヤの社会史‐思想史的背景は、獲得された「客観的真理」もが原則として、最終的真理として確立されたわけではなく、さらなる批判の対象になりうることを教えてくれている。これはどんなに完全に近い形で整序されようと、原則として、いかなる理論にもあてはまる認識論的特性なのである。このような理論が現実に子にとれる形に著されたのがユークリッドの『原論』であった。『原論』のギリシヤ語ストイケイアは、本来は最も基本的なことがら、す母(アルファベット)などを指す。まさしく、それはギリシヤ的精神性の原基(ストイケイア)なのであった。