源流としての古典科学

 

 

 ギリシャの「奇跡」

 

 十七世紀のホッブズが「科学的」な知識の代表とみて高く評価したのは数学、なかんずく公理論的に体系づけられた幾何学であった。彼はユークリッド『原論』の第一巻の最後のほうに置かれた命題(ピュタゴラスの定理)を見て、それを論駁しようとした。が、その著作を初めからたどりなおしてみた時、その命題の論証の組み立てが論駁できないほどの説得力をもつものだったので、結局その命題の真理性を認めてしまわざるを得なかった。

 

 まったく逆のエピソードもある。中国允)では早くも十三世紀にイスラーム科学との接触を通して『原論』の中国語訳が作成されていたらしいが、その訳本は帝室図書館にとどめ置かれたままになった(ニーダム『中国の科学と文明』第三巻一九五九年、同『東と西の学者と工匠』)。それほど重要性を認めなかったわけである。その後あらためて、その最初の六巻呈として幾何学を対象とする)が、利瑪竇ことマッテオーリッヒが中国語に口述し、徐光啓がそれを記録するかたちで翻訳され、一六〇七年に『幾何原本』の表題のもとに完成された。たしかに翻訳を子伝った徐光啓は、その論証形式を「明」萌晰である)として高く評価した。

それと対照的に、ほとんどニュートンの同時代人であったかなり有能な数学者、梅文鼎はその内容をよく理解でき、それの中国数学による書きかえを行ったものの、その公理論的形式については「無用」に近いとの印象をもったらしい。

 

 古代ギリシヤで、数学の真理内容を伝えるという点ではそのように「無用」と見えかねないような命題を厳密に論証し、さらに理論全体を公理論的に整序する必要がどうして起こったのであろうか?

 

 それでは、数学以外のギリシヤ科学において事情はどうであろうか? ここでは例を数学から最も遠いような印象を与える医学から採ろう。

 

 本格的な学問としての医学はしばしばヒッポクラテスから始まるとされる。このヒッポクラテスの医学において革命的な徴表はどのようなところに認められるのであろうか? それを確認するには、彼の真作に帰してよいと思われる「神聖病について」という論考を検討するにしくはない。「神聖病」とは今日では癲癇であると見なされているが、彼はこの病気の原因を、従来とは違って、憑きもの、ないし神業と見ない。あくまで自然的原因から病因を解明しようとする。それのみか、この奇態な病気を「神聖化して実は神を隠れ蓑に使い、身すぎ世すぎをしている呪術師や山師たちを批評する彼の言葉は痛烈をきわめる。彼は怒ることを知ってい

た」


 ある時期以降の古代ギリシヤの数学と医学には、実は共通した特徴を認めることができる。ものごとを批判的に見る姿勢、脱神話化、自然化の気風である。数学において納得のゆく論証を求める極度に批判的な構神的態度や、医学における自然的原因の追究には一般に反権威主義的メンタリティが確認できるのである。

 

 それでは、ギリシヤにおいて批判的思考が確立する以前には、いがなる思考法が支配的であったのだろうか? それは「神話創成的思考」ないし「神話的思考」と呼ばれる。その思考形態は権威に依存する。「原始心性が原因を探す時には、(いかにして谷ヨとは尋ねずに、《だれが)三了を探子」(H・フランクフォートほか『哲学以前』一九四六年)。これがまさしくヒッポクラテスにおいて放逐された思考法なのであり、のみならず、哲学的思考を創始したタレスがそれよりはるか以前に追放していたとされる思考法なのである。

 

 数学はなにもギリシヤ人のように論証概念をもたなくとも遂行できる。単純に実践的にてある。このような例はよくある。たとえば、私たちはなにもしがつめらしい理論がなくとも立派に料理が作れる。一般に誰かが経験的に作った処方に単純に従えば十分なことが多いからである。実際、エジプト人は、縄の三辺の長さを、3、4、5にすれば、直角三角形ができる、という経験的処方を知っていた。それで測量には十分であった。が、エジプト人はあえてそのことを論証しようとしなかった。少なくともその痕跡は発見されていない。

 

 そのような「おおよそ」の思考法から飛躍し、それから訣別する精神的風土が古代ギリシヤのある時期に生じた。その思考法の飛躍、革命を「ギリシヤの奇跡」と呼ぶとすれば、その「奇跡」はどうして起こったのであろうか? そのことを私たちは数学史の観点から論じてみることにしよう。

 

(科学論入門:佐々木力著)