十七世紀の科学革命

 

 

 西欧近代科学には大きく分けて二つの形態が認められる。第一が、ルネサンス以降展開された科学革命(第一の科学革命)とともに生まれた近世科学であり、第二が、フランス革命以降の本格的な近代社会で育まれた近代科学である。フランス革命とともに起こり始めた近代科学の 変革はしばしば「第二の科学革命」といわれる。現代科学は第二の科学革命以降の産物である。

 

 十七世紀に頂点を迎えた第一の科学革命は、ルネサンス以降の巨大な社会変動の帰結である。西欧社会はルネサンス期に、古代のギリシヤ語すラテン語で書かれた文献を復興させるかだから、大洋にのりだし父航海時代)、また宗教的基盤をも個人の自発性を重税寸る形態に変革した(宗教改革)。この時代に近代国家が生まれ、また合理的経営をもとと寸る近代資本主義が定

着しもした。その一環として誕生したのが近代科学であったのである。

 科学革命は、古代ギリシヤのプトレマイオスによって集大成された地球中心的な数学的天文学についての書『アルマゲストアラビア語で「最も偉大なもの」)を太陽中心的な体系へと書き加えようとするコペルニクスの一五四三年の試み(『天球回転論しによって開始され、ニュートン『自然哲学の数学的諸原理』二六八七年初版)によって一応の完成をみたと言われる学問史上の一人事件である。ニュートンの地上運動と天体運動を統一的にとらえようとする著作は、ケプラーによるコペルニクス天文学モデルの精密化(楕円モデルの採用)、ガリレオによる地上連動の数学的法則の定式化(万作法則の発見)、デカルトによる自然の機械論的モデルの採用と数学的自然記述の重視などを主妛な基礎として、初めて成立しえた。そこで比類のない学問的方法として採用されたのは数学であり、体系化されたのは古典力学であった。デカルトは簡明で確実な思索の方法を重視する哲学の原理を唱道し(その第一原理が有名な「われ惟う、ゆえにわれあり」である)、かつ代数解析的数学の伝統の確立者にもなった。ニュートンはまた、ライブニッツとともに無限小代数解析というべき微分積分学を創始した。

 

 生物も機械論的モデルによって見られるようになった。そういった観点の創始者は、デカルトとウィリアムー(Iヴィである。化学も、錬金術的伝統と訣別し、ボイルらによって機械論的・粒子哲学的形態に書き加えられていった。

 

 こういった数学的、機械論的、実験的な科学は、す七世紀、とりわけ二(六〇年以降、近代国家の中に制度化されるようになった(科学の古典的制度化)。それだけではなく、近代科学的合理性は一般思想、一般社会にまで普遍的に波及されるべきであるとする思想運動も展開され(啓蒙主義)、フランス革命の思想的基盤ともなった。

 

 近代科学はルネサンスの機械的技芸の一人高揚の時代ののちに生み出された。数学も、ルネサンス技術者がそれに熱狂的関心をもち、その研究が興隆したあとで、自律的に。純粋数学μとして探究されるようになった。実験器械に依拠する実験的方法も、ルネサンス技術者の仕事のすり方を継承したものである。それゆえ近代科学はたんなる書斎での理論的思索ではない。こうした中世以来の「機械的技芸」の伝統に基づく近代科学のあり方を「テクノロジー科学」と名づけることにしよう。フアクノロジー科学」を始めた最初の科学者の】人はガリレオで、その国家的振興を訴えたのが英国の宰相フランシスーペイコ* テクノロジーの語源のテクノロギアという言葉は本来はギリシャ語で、「体系的な文法的知識」の

 

 意味に用いられていたが、近世ヨーロッパになって「機械的技芸」の意味で使用されるようになった。

 

 今日のテクノロジーの起源がここにあるのである。

 

(科学論入門:佐々木力著)