「具体の科学」と近代科学

 要するに、レヴィ‥ストロースが「具体の科学」としてとらえるものの考え方は、必然的に近代科学へと発展し、発達レヅエルの階梯を昇ってゆく出発点となるという意味において、原初形態なのではない。「具体の科学」と近代科学双方の理解のパターンは必ずしも対立したものではなく、またいすれがどちらかより劣った前段階であるというものでもなく、相異なった認識の二様式として並置されるべきものなのである。原初的思考に見られる「具体の科学」はレヅイ‥ストロースによって、ブリコラージュ(たとえば、器用な大工仕事)と類比的にとらえられる。それは、たしかに近代工業のエンジニアがする仕事の仕方とは似ていない。仕事は計画に従って考案されるわけではないし、あらかじめ購入された材料や道具をもってことにあたるわけではないが、思いもかけない子ばらしいできばえを示すことがありうる。ともかくブリコラージュには一定の秩序立った仕事のパターンが存在しているのである。

 

  「具体の科学」という概念のあり方は、ルートヅイヒ・ウィトゲンシュタインという哲学者の「言語ゲーム」という考え方を使うとうまく説明できるかもしれない。「具体の科学」は、近代自然科学というゲームの中に含まれ、下位にあると見なされる部分ゲームなのではない。それぞれをゲームとして見てすれば、相異なった規則をもち、「具体の科学」のゲームの規則も十分秩序立っていることがありうる。時には「具体の科学」というゲームのほうが面白い場合だってありうるのである。す九世紀の西欧のごく普通の人々は、「未開人」が自分たちの言語ゲームにたんに無知か、あるいは自分たちのゲームの原初的な部分ゲームしかもっていないと見ていたに違いない1「文明世界」に批判的な洞察力ある知識人に例外はいたにしても。21世紀の文化人類学者はそうではなく、「未開人」が彼ら固有のす分理解可能な、自分たちとは異なる言語ゲームをもっていることをよろこんで認めるのである。「具体の科学」がいかなるゲーム規則をもつのか、またその共同体的基礎がいかなるものであるのかを探究寸るのは文化人類学者の重要な研究課題である。

 

 このような観点がありうることが一度認められると、反対に、私たち近代科学技術文明の言語ゲームを「原初的共同体」の住人がどのように見るのかも重要な研究課題になる。すなわち、彼らは、私たちが戦争による殺人と個人的怨恨による殺人を区別したり、また自動車事故による死にさまざまな分類法(憫然、過失、意図)を異常な程度にまで細密に発展させていることに驚嘆するかもしれないのである(デイヅイドーブルア『数学の社会学-知識と社会表象』一九七六年、の「アザンデ族の論理と西洋科学」の節)。

 

(科学論入門:佐々木力著)